「永遠のロゴス」

2021年11月21日(聖霊降臨後最終主日)
マルコによる福音書13章24節-31節

「しかし、わたしのロゴスは決して過ぎ行かないであろう」とイエスは未来について語る。来たるべきときにおいても「決して過ぎ行かない」ご自身の言葉ロゴスについて語る。イエスの言葉ロゴスは、通り過ぎ、消えていくようなロゴスではない。過ぎ行くことなく存続する永遠のロゴスである。それゆえに、このロゴスを自分のうちに受け入れている存在もまた、過ぎ行くことなく、ロゴスと共に生きるのである。そのような人たちが27節で語られている「選ばれた者たち」である。

この「選ばれた者たち」はどのような理由で選ばれたのか。彼らが善い人間だったからか。彼らが悪を行わなかったからか。そうではない。神が選んだがゆえに「選ばれた者たち」である。神の選びの基準はどこに示されているのか。どこにも示されてはいない。示されていないということは、基準はないということであろうか。そうである。それは神の意志を素直に受け入れるか否かだけだからである。天使たちが派遣され、人の子が「集める」とき、集められることを受け入れる者が「選ばれた者たち」である。素直に、純粋に、集められる受動を生きる者が「選ばれた者たち」である。この人たちが、どうしてそうなっているのかは、誰にも分からない。その姿を見て、自分も同じようにしようとしてもできるものではない。同じようにしようとする者は、同じではないからである。同じようにしようとする必要がない人たちが「選ばれた者たち」なのである。その人たちは、最初からそうなのである。最後になって、同じようにしようとしても同じにはなり得ない。そこに、人間の意志が入り込んでいるからである。

「集める」という行為の主体は神である。行為の主体が集めるのであって、我々人間が「集められよう」としても集められることにはならない。主体が主体であることを守るのは、主体の言葉に従うという受動においてしか可能ではない。守ろうとしても守ることができるわけではない。むしろ、守ろうとする人間の意志が働いて、主体であるお方の主体を奪ってしまうことになる。こうして、我々は自己の主体において、神の主体を拒否することになるのである。イエスが言う「いちじくの木」が教えていることも同じである。

いちじくの木は、夏が近づくと自然に葉を繁らせるとイエスは言う。夏が近づいたから、葉を繁らせなければというような意志が働いているわけではない。自然は自己意志によって変化するわけではないのだ。自然の変化を促すように働く神の働きによって変化する。何故か知らないけれど、自然はそのようになっている。自然の変化は、季節を感じ、季節に従って、そうならざるを得ないように変化する。そこには目的はない。この姿から何を学ぶべきなのか。イエスが語っているのは、そうなっていることはそうなるのだという自然の姿だけである。これが如何なる意味のある「たとえ」なのかと考えてみても分からない。イエスが語っているのは、自然の姿そのままなのだから。だとすれば、我々人間も神に造られた自然の一部として、なるべくしてなることを受け入れるということである。

「わたしのロゴスは決して過ぎ行かないであろう」という未来形の言葉は、ヘブライ語の断言法の形である。つまり、イエスは断言しているのである、「わたしのロゴスは決して過ぎ行くことはないのだ」と。このイエスが語ることも、いちじくの木と同じく、自然の定めということになるのであろうか。神の意志ということになるのであろうか。神の働きが自然の中にあるとすれば、イエスのロゴスの中にも神の働きがある。イエスのロゴスを受け入れる者は自然に受け入れる。受け入れない者は自然を拒否している。それだけである。そこに「選び」が存在している。つまり、「選び」とは選ばないということであり、「選ばれている」ということは自然にそうなるということである。そのようであるから、そのようになる。これが「いちじくの木」が我々に語っていることである。

イエスのロゴスは過ぎ行かない。永遠に存続する。それは、単に存在するということではない。常に今を生きているということである。イエスのロゴスは時間と共に変化することはない。イエスのロゴスは時代の流行になることはない。イエスのロゴスは地域によって価値が変わることもない。過ぎ行かないということは、古くなることはないということである。つまり、常に新しく、常に今であり、常にわたしに語られるのである。それがイエスのロゴスである。

時代は古くなる。過去の偉業にこだわるとき、我々は偉業と共に古くなる。今を生きることができなくなる。我々人間界の事柄は古くなる。つまり、過ぎ行く。また、人間界の事柄だけではなく、神が創造した天も地も過ぎ行くとイエスは言う。神の創造も永遠ではない。だからこそ、太陽も月も光を失い、星は落ち、天の諸力は揺り動かされると言われている。「天体」と訳されている言葉は、「天における神の可能とする力たち」が原意である。つまり、神の可能とする力によって動いている宇宙が揺り動かされるということである。それは、神がしっかりと固定していると考えられていた世界である。神の創造の世界が揺り動かされる。どうしてなのか。神の創造は永遠ではないのか。永遠ではないのだ。なぜなら、神はこの世界を創造した際に、人間たちが生活することができるように、すべてを整えてくださったからである。人間たちのために造られた世界であるとも言えるであろうか。ところが、人間の堕罪によって、世界は苦しむことになった。現在の我々の世界もこの苦しみの中にある。使徒パウロが言うように、被造物はうめいている。我々の罪ゆえにうめいている。神の子の啓示を待ち望んで、うめいている。それゆえに、我々の世界を新たに創造するために神は世界を揺り動かす。人の子は来たり、神の意志に従う存在を集める。それが「いちじくの木」が語っている自然の姿と同じだと、イエスは言うのである。

イエスは、天体の揺るぎや争いや迫害という苦難は「陣痛の始まり」だとこのマルコ13章の8節で語っている。苦難は、新しいいのちが生まれるための痛み、陣痛なのだと言う。世の終わりは、新しいいのちが生まれることなのである。我々が、この世で経験することもそうである。苦難の向こうには、新しい世界が広がっている。苦しみを通ってこそ、新しいいのちに与ることができる。我々は苦しみを神の恵みとして受けているのだと、パウロはフィリピの信徒への手紙で語っているが、彼自身の信仰的経験の言葉である。パウロは、イエスの永遠のロゴスを彼の信仰の今において聞いたのである。それゆえに、彼が語った言葉の中に、イエスの永遠のロゴスが宿っている。二千年後の我々を力づける言葉として働く。時代に流される言葉ではなく、時代を越える言葉。時代に縛られない言葉。神の言葉が生きているのは、あなたの今なのだ。

我々人間が、過去にこだわる限り、イエスの永遠のロゴスを聞くことはない。我々人間が、自分の意志にこだわる限り、永遠のロゴスを受け入れることはない。我々は永遠のロゴスを追いやるであろう。それでもなお、永遠のロゴスは過ぎ行かず、選ばれし者たちを救う。自然に、純粋に受け入れる者が救われる。これが今日、イエスが我々に語っていることである。

聖霊降臨後最終主日に、我々が覚えるべきは、我々の世界は儚く、脆い世界であるということである。滅びるべきものが滅びるのであり、救われるべきものは救われる。神の選びに与る者が救われる。選びに与る者は、選ばない者。選ばれようとしない者。主体である神を拒否しない者。神に造られた存在であり、罪を犯した存在であることを認める者。罪深き者を救うために、来てくださったイエスを見上げる者。我々はそのような救いに与ることができる。永遠のロゴスであるイエスは、我々にご自身を与えてくださったのだから。今日、共に与る聖餐を通して、永遠のロゴスがあなたのうちに入り来たり給う。あなたは救われる者、選ばれし者として生きることができるのだ。

祈ります。

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