「今 あなたに」

2023年3月12日(四旬節第3主日)
ヨハネによる福音書4章5節〜26節

まったく関係ないと思えることの中で、真実が明らかになるということがあります。ちょっとした会話の中で、その人の考え方が透けて見えるということがあります。日本人は特に本音と建前を使い分けると言われますが、人種や文化に関係なく、人間という存在は表と裏、建前と本音を使い分けて生きているものです。かつて日本は恥の文化だと言われたこともありましたが、どの国の人間であろうとも恥は感じるものです。だから、恥が表沙汰にならないようにと隠して生きる人や隠れて生きる人も出てきます。今日、イエスが井戸で出会ったサマリアの女も恥を感じて、誰も水汲みに来ない時間帯、陽が高く昇っている時間に井戸に来たのです。それなのに、そこにイエスがいた。女は驚いたことでしょうね。誰もいないはずだったのに、この男の人は一体誰だろうと思いながらも、必要な水を汲もうとして井戸に向かわざるを得なかった。どうか、何もありませんようにと祈る気持ちだったかもしれません。

女の気持ちとは裏腹に、イエスは声をかけました。「水を飲ませてください」と。女は何とか関わり合わないようにと答えるのです。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と。このときの女の気持ちはこのようだったでしょう。「あなたはユダヤ人ですよね。サマリアの女のわたしに声をかけても良いのですか。馬鹿にしているサマリア人に頼むなんて、あなたは恥を感じないのですか。」。このような思いを隠しながら語った女に対して、イエスは言うのです。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と。

「ちょっと、この人何だかわけの分からないことを言い始めたわ。あまり関わりたくないんだけど。」と思ったかも知れませんが、女は言います。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」と、女は次第にイエスとの会話に引き込まれていきます。わけの分からないことに始まった対話から、女自身の恥をイエスに話すことになり、最後には、救い主であるキリストがやって来て、全てのことを知らせてくださると、女自身が知識として知っていることをイエスに語ります。すると、イエスは彼女に言うのです、「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」と。

この言葉は、原文ではこうです。「わたしは存在している、あなたに語っている者として」。これを、「わたしがそれである」と訳し、「それ」が「あなたに語っている者」である「わたし」なのだと訳したのですが、果たしてそれで良いのだろうかと思います。原文に従えば、イエスがおっしゃっているのは、「わたしはあなたに語っている者である」ということです。確かに、イエスは女に語っている者として存在しています。イエスはその事実を語っているだけなのでしょうか。それとも、新共同訳が訳すように、「あなたに語っているわたしがそれである」ということでしょうか。イエスは女に、目の前で今あなたに語っているわたしが存在しているとおっしゃっているのです。それは、そのイエスご自身が「キリストである」という意味かも知れません。しかし、イエスは今目の前であなたに語っているわたしを認めなさいとおっしゃっているのではないでしょうか。目の前の存在を認めないままに、架空の人間を思い描くのではなく、また自分自身の恥を隠して他者と関わらない生き方ではなく、わたしのように「あるようにある」生き方をしなさいとおっしゃっているのではないでしょうか。

女は、この後、町に戻って、町の人たちにイエスのことを「もしかしたら救い主キリストかも知れない」と伝えるのです。町の人たちに会うのを避けて、遠い井戸まで昼日中水を汲みにきた女が、避けていた人たちの間に入っていく。そして、語りかける。女を恥から解放し、自らが経験したことを伝える者にしたのは、イエスとの出会いでした。

彼女は、本音と建前を使い分ける必要がなくなったかのようです。裏表なく、隠すことなく、自分のことを言い当てた人がいると町の人たちに伝えるのです。恥に思えることさえも、恥と思わず、自分自身の真実を晒しながら、イエスを救い主かも知れないと伝えるのです。この女は、恥から解放されたのです。もはや、今後は恥を隠すことなく、真理の中を生きていくことでしょう。それが可能となったのは、何だかわけの分からないことを話し始めたイエスによってなのです。イエスとの不思議な出会いが女を解放しました。まさに、「真理はあなたたちを自由にする」というイエスの言葉をサマリアの女は経験したのです。それは「今」「あなたに語っている者」イエスによって起こった出来事でした。

女との対話の中で、イエスがおっしゃる「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」という言葉が語っているのは、現在形の「来ている」礼拝の時です。そして「今、それが存在している」とイエスはおっしゃっているのです。「来る」という訳では、いつか来るだろうと言っているように思えますが、実は「父を礼拝する時が来ている」と現在形でイエスはおっしゃっているのです。だからこそ、重ねて「今、その時が存在している」のだとも言うのです。「霊と真理のうちで礼拝する」のは、いつか分からない先の話ではなく、今のことです。そして、女に語っているのは今目の前に存在しているイエスなのです。

ヨハネによる福音書におけるイエスは、復活したイエスだと言われます。十字架と復活を経験したイエスが復活者として啓示の言葉を語っているのです。このお方は、すべてを経験したお方ですから、女が言うように、すべてのことを知らせることができるお方です。そのお方が「今 あなたに」語っている者なのだと、イエスは言うのです。復活者は今目の前に存在し、語っている。これが、「あなたに語っているわたしがそれである」という言葉が伝えていることでしょう。だからこそ、女はイエスとの対話を通して、復活者の言葉を聞き、解放されて行ったのです。

イエスは、どの福音書においても、ご自身をキリストであると明言したことはありません。確かに、目の前に生きておられるイエスをキリストであると告白したペトロを否定はしていません。それは、ペトロのうちに起こった信仰なのですから否定しないのです。しかし、ご自身から「わたしがキリストである」とはおっしゃらないのです。そうであれば、ヨハネ福音書のイエスの言葉も「わたしがそれである」とは訳せないでしょう。「目の前で語っている者」として「今、あなたに」対峙している存在を受け入れなさいとおっしゃっているのではないでしょうか。それは一人ひとりの信仰の問題なのです。イエスが「わたしがキリストである」とおっしゃるから信じるのではありません。むしろ、わたしたちはイエスの言葉を聞いて、「このお方なら信頼できる」救い主だと信じたのです。信仰はわたしとイエスとの間に生まれる結びつきです。この結びつきこそが、わたしのうちに神によって起こされる信仰なのです。マルティン・ルターが言う「注入された信仰」、わたしのうちに注ぎ込まれた信仰なのです。そこに至るには、イエスとの対話に入れられることが必要です。自分で入るのではありません。イエスが語る言葉が分からないとしても、その言葉に引き込まれていく。父なる神が女を引き寄せて、イエスと結んでくださった。最終的にはキリスト告白へと導かれています。そして、自由を与えられています。「今 あなたに」語っているイエスが真理そのものです。隠れることなく、恥じることなく、ご自身そのものをあなたに与えてくださるイエス。わたしたちもまた、自分自身を喜んで生きていきましょう、イエスと結んでくださった神に感謝して。

祈ります。

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