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2015年6月28日 末竹十大牧師

「究極的思考」

マルコによる福音書3章1節〜12節

 

「安息日に許されているのは、本質的に善きことを行うことか、悪を行うことか。」とイエスは言う。病気の癒しを安息日に行うか否かを伺う人々に対して、イエスが問うのは、善か悪かである。さらに、「魂を救うことか殺すことか」とも問う。病の癒しが善と悪、救いと殺害のどちらかと問うのである。これは行き過ぎではないのか。誰も殺そうとは思っていない。誰も癒しを悪だと思っていないと思う。誰もそんなことを議論しているのではないのにと思う。安息日には休まなければならないのだ。仕事をしてはならないのだ。癒しは仕事である。それゆえに、安息日にあえて行わなくとも、今日の夕方、安息日が明けたならば行えば良い。と、ここにいた誰もが思ったであろう。ところが、イエスはこのような極端な言葉を語り、怒りまで表す。どうしたことかと誰もが思う。頭がおかしいのではないのかとも思うのだ。

このイエスの怒りは、安息日の本質を理解せず、批判するファリサイ派に向けられているのか。いや、ファリサイ派に反論できない群集にも向けられているのではないのか。反論せず、自分たちの信仰を表明できない者たちにも怒っているのではないのか。それゆえに、イエスは手を動かせない人を真ん中に立たせるのではないのか。この人のいのちの問題なのだと。この人の魂の問題なのだと。この人の本質的な善きことの問題なのだと。これは、究極的な思考である。究極から考え、究極へと向かう思考である。安息日を究極的に思考すれば、こうなるのだとイエスは言うのである。

手を動かすことができない人が自分の手を自分の意志に従って動かすことができるようにすること。彼にとっては、手を動かすことができないと言うこと自体が、彼に安息をもたらさない障害となっているのだ。病気の人たちも同じである。彼らが悪霊によって病気にされているというよりも、彼らが病気のために安息を得られないことが悪霊の仕業であると言えるであろう。何故なら、病を負わされている者は、神から見放されているか、神に対して罪を犯したゆえであると思われていたからである。このような思考が悪魔的思考である。それに対して、イエスは究極的思考で対抗する。そうでなければ、安息日に何が許されているかと議論して、手が動かない人が癒されるかどうかを見ている人たちには、自分たちの思考のおかしさが分からないからである。

さらに、手が動かない人を苦しめているのは、あなたがたの悪魔的思考なのだとイエスは指摘したいのである。汚れた霊に「彼を明らかにしないように」と戒めるのも同じ理由である。イエスが神の子であることを明らかにすることは、汚れた霊がすることではない。聖なる霊が行うことである。汚れた霊が行うとすれば、イエスを神の子として明らかにすることで、反対にイエスを批判し、殺害することへと向かわせるのである。何故なら、汚れた霊は悪霊であり、神に反対して行うからである。イエスが神の子であることが明らかになれば、どうして殺害が起こるのか。どうして、イエスが批判されるのか。汚れた霊は、イエスを明らかにして、イエスが殺害されるように導くからである。こいつが神の子だから、殺害すれば、お前は神を越えることができると唆すからである。だからこそ、イエスは汚れた霊にものを言わせないようにしたのである。それでも、汚れた霊は触れ回るのだが。

手が動かない人は動かないというだけで、悪霊に取り憑かれているとか罪を犯したとか見られる。動かないことの苦しみにさらに苦しみを与えられる。傷に塩を塗るのが人間の罪なのである。さらに、その傷を癒されるのが安息日であるならば、癒されたこと自体が悪だと考えてしまう。癒した者が安息日を破っているから、癒されたこと自体が悪になってしまう。このような悪魔的思考が支配する世界に、イエスは究極的思考で対抗している。しかし、この究極を理解する者はいない。いや、彼らは理解しているであろう。しかし、沈黙している。それは、認めたくないからである。認めてしまえば、自分たちが悪になるからである。自分たちが神の意志に反していることになるからである。自分たちを守るために、沈黙する群集。彼らに怒るイエスは正当である。

目の前で苦しみを与えられているのは、手の動かない人。この人を見ていない群集。彼らは自分たちが否定されることを恐れている。手の動かない人の苦しみを理解しても、自分たちを守るために沈黙する。これこそが悪霊に支配されている者たちではないのか。イエスの怒りはそこに向かっているのだ。

イエスは、彼らに批判されないために、手が動かない人に触れない。ただ命じる。「手を伸ばしなさい」と。そして、「彼が伸ばすと、元通りになった」と記されている。イエスの命令に従っただけであるが、彼は手を伸ばしたのだ。伸ばせない手を伸ばせと言われて、伸ばした。彼は伸ばそうとする意志を起こされたのである。今まで、伸ばせないと思っていた。伸ばそうとする意志を閉ざされていた。それは彼の周りの人間たちが、彼を閉ざしていたからである、彼が癒されてはならないと。何故なら、彼は罪を犯して、神に懲らしめられているからだと。神の懲らしめを十分に受けなければならないと。こうして、彼は周りの人間によって、閉じられていたのだ、彼自身の意志を。その意志を、イエスは開く。ただ命じるだけで開く。彼は、意志を開いて良いのだと開く。そして、手を伸ばす意志が彼のうちに起こされたのだ。この意志を起こしたのは、イエスの言である。イエスの言が、彼の意志を喚起し、彼の意志を開き、彼の意志を良しとした。それが彼の安息なのだと、彼の破れを整えてくださったのだ。こうして、手が動かない人は、ただ手が動かないのではなく、意志を閉じ込められていたのだということが明らかになった。

この癒しに対して、ファリサイ派も群集も批判できない。イエスは何も働いていないのだから。イエスは手を触れることさえもしなかったのだから。イエスは命じただけ、言を発しただけなのだから。それゆえに、彼らはどうやってイエスを殺害するかという計画を話し合うのである。イエスの癒しを批判できなかったがゆえに、彼らの思考は殺害に及ぶ。これこそ悪魔的思考ではないか。自分たちを守るために、本質的に善きことを認めることができず、沈黙することの行き着く先は、究極的な殺害という思考である。イエスの真実なる究極的思考が、悪魔的な究極性を引き出してしまったのだ。これこそが、イエスが汚れた霊に戒めた理由だったのだ。しかし、時すでに遅し。悪魔的思考は広がっていくのである。結局、悪霊に取り憑かれているのは、病の人ではなく、病の人を閉じ込めて、自分たちは健康だと自負している存在なのである。このように、殺害に至る思考へと導かれるがゆえに、イエスは汚れた霊に戒めるのだが。結局、人間は罪から解放されるには、罪を認めなければ解放されないということである。

しかし、罪を認めることさえも、神の力、聖霊の力によることである。そうして見れば、悪霊、汚れた霊から逃れるにはどうしたら良いのだろうか。自らの力に頼れないことを知らなければならないが、それさえも聖霊の力によらなければ可能とはならない。結局、人間は自分から救われることはないということである。ただ、神の言を聞き、神の言に従う意志を開かれなければならないのだ。自分の意志ではなく、神の言によって開かれた意志に従うこと。それだけが我々を救うのである。

手の動かない人が、意志を開かれたように、動かしたいという意志は、神の本質的に善きことであり、魂の救いであることを知ることである。神の意志は、我々人間の救いであり、我々人間に本質的善きことを与えることである。この意志を受け入れるとき、我々は神の意志に従い、神の意志を実行する者とされて行くのである。この意志を開くのは、イエスの言、神の言である。神の言を真実に聞き続ける者は、悪魔的な閉じ込める思考から解放され、究極的思考を生きる者とされて行くのである。神ヤーウェは、そのために我々に語り給う。「聞き従って、魂に命を得よ」と。神の意志に従って生きて行こう。

祈ります。