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2013年12月1日 末竹十大牧師


「派遣への解放」

マタイによる福音書21章1節~11節

 

「もし、誰かがあなたがたに何か言ったなら、あなたがたは言いなさい。彼らの主が必要としているのです。しかし、すぐに彼らを派遣するでしょうと。」とイエスは弟子たちに言を与える。新共同訳のマタイによる福音書では「お渡しになります」と訳され、マルコによる福音書では「お返しになります」と訳されている言葉は、原語ではアポステロー「派遣する」という同じ言葉である。使徒と訳されるアポストロスは「派遣された者」を意味するが、アポステローの動名詞である。「渡す」、「返す」ということと「派遣する」ということは意味の違う言葉である。「返す」と言えば、本来の所有者に「返す」という意味になる。しかし、本来の所有者が「派遣する」とイエスは語っているのである。「返す」、「渡す」のであれば、「彼らの主が必要としている」とは言わせなかったであろう。本来の所有者はイエスであるということを前提としない限り、「派遣する」とは言わないのである。

その前に、イエスは弟子たちにこう言っている。「あなたがたの向こうの村へ行きなさい。そして、すぐにあなたがたは見出すであろう、縛られているロバと、彼女と共にいる子ロバを。解放して、わたしに連れてきなさい。」と。イエスは、彼らの本来の主であるがゆえに、彼らを解放することを求めるのである。本来の主が、彼らを解放し、自由にして用いる。そして、すぐに派遣するとイエスは言うのである。この解放と派遣は、イエスがこれからエルサレムで担う十字架が指し示していることである。イエスが負う十字架が、我々を解放し、自由にして用い、派遣する。このロバの親子を連れてくるように命じたイエスは、これからご自身が担うことの象徴として、ロバの親子を解放するのである。自由にして用いるのである。そして、派遣する。

我々は、罪に縛られている。がんじがらめになって、罪の奴隷になっている。しかし、罪から解放されるには、死が必要なのだ。自分の肉に死ぬことがない限り、罪から解放されることはない。真の意味で自由になることはない。イエスの十字架の死は、罪の奴隷からの解放をもたらす。罪の支配からの解放をもたらす。縛られている我々を殺すことなく、ご自身の死において罪を働かなくする。イエスと共に死ぬ洗礼によって、我々は罪に死んだ。そして、神に生きる。

罪から解放されている存在は、自由である。神に自由に従う。神に認められるために従うのではない。神の国に入る切符を手に入れるために従うのでもない。義と認められるために律法を行うのでもない。ただ、神に従うのだ。それこそが真に自由な存在の生き方である。イエスが十字架に死ぬことを通して、我々は解放される、ロバの親子が縛りから解放されたように。

我々を縛っていたのはいったい何か。この世である。本来の主人ではないこの世の君である悪魔に縛られていたのである。本来の主人がその縛りから解放してくださらないかぎり我々はいつまでも罪の奴隷であり、悪しか行わない存在なのだ。しかし、今我々は神に従う道へと解放されたのだ。神に従う道の上に派遣されるために、解放されたのだ。

この解放は、イエス・キリストのみがなし得たことである。ただ、言によってのみなし得たのである。イエスがこう言いなさいと言われた通りに語ったとき、ロバの親子は解放された。イエスの言は解放する言であり、実現する言である。この言による解放。言による派遣。言がロバの親子を生かす。イエスの言は神の言として働いている。そのようなお方が、今日人間の言葉によって縛られる。

「この方は預言者イエスである。ガリラヤのナザレからの」と群衆たちが言う。イエスを預言者であると言うその言葉がイエスを縛っている。我々が或る人をこのような人であると言うことによって、その人を縛る。その人がこのような人であるということは我々が考えているだけである。神が造られたその人は、我々が考える範囲に閉じ込められる人間ではない。しかし、我々は他者を自分の理解に閉じ込め、そこから出てしまうことを嫌う。自分たちは分かっていると思い込んで、分からなくなることを嫌う。こうして、我々人間は他者を縛り付けるのである。「こんな人とは思わなかった」と言って、その人を非難する。それはあなたが勝手に理解していると思い込んでいるその人である。それなのに、「こんな人とは思わなかった」と言うのである。勝手に決めつけておいて、自分の理解に合わないと非難する。自分の都合に合わないと非難する。これが人間である。従って、マタイにおいて、群衆はイエスを縛り付ける群衆である。それゆえに、十字架に付ける群衆でもある。

イエスは十字架に縛られる。十字架に両腕両足を縛り付けられて、自らの重みによって首つり状態になり、窒息死する。これが十字架刑である。イエスは十字架に釘付けにされたとヨハネは語っているが、釘だけではなく、荒縄で縛り付けられたのだ。そうでなければ、イエスが十字架上に死ぬまでぶら下がっていることはできなかったのである。イエスは、縛られることを引き受けた。今日、縛られているロバを解放したイエスは、自らが縛られることを通して、我々人間の解放を実現する。群衆が預言者イエスだと決めつけているイエスは、預言者などではない。神の子である。救い主である。誰にも縛られないお方である。そのお方が、縛られることを引き受け、我々を解放するのだ。解放された我々は、誰も縛らない生へと派遣されるのだ。たとえ自分が縛り付けられても、誰をも縛らないことへと派遣されるのだ。ロバたちが解放されたのは、彼らが縛られるためでもなく、誰かを縛り付けるためでもなく、自由に主に仕え、解放されたものとして、派遣されるためである。

ロバたちは、解放されて、派遣される。派遣された先で、再びこの世の主人が彼らを縛り付けるであろう。しかし、もはや彼らは縛られてはいない。主に遣わされたからである。縛られることも主の派遣として引き受け生きるからである。さらに、他のロバが縛られているならば、そのロバの真実の主を教えるからである。ロバが同じロバを励ますことがあるのかどうかは分からないが、イエスに用いられたロバたちは励ますであろう。イエスに従うロバがいるのかどうかは分からないが、従う姿で語るであろう、救い主を。そのような象徴として彼らは今日解放され、自由にされて、派遣されたのだ。この世の低き存在の象徴として。

待降節に迎える乳飲み子イエスは、このために生まれる。神の御子が地上に縛られる。飼い葉桶の中に縛られる。十字架に縛られる。最も低き者として縛られる。こうして、我々の世界に解放がもたらされる。待降節は十字架に縛られるために生まれる御子をお迎えする期節である。我々が縛り付けられているならば解放されるであろう、乳飲み子によって。我々が誰かを縛っているならば、その人を解放するであろう、乳飲み子が。ただ神の力によって生きていると語る乳飲み子が。人間の力は何もなし得ないと語る乳飲み子が。ただ神こそがあなたの主であると語る乳飲み子が。

このお方を迎える備え。それは、我々が誰をも縛らず、誰にも縛られないようにとの神の意志に従う備えである。解放し、派遣するお方に従う備えである。今日、与えられるキリストの体と血は、我々のうちに働いて、我々を解放し、自由にし、本来の主に従う者にする神の賜物である。感謝して受け、主に従っていこう。解放されているあなたは派遣されていくのだ、この世の縛られている人々の中へ。解放を告げるために。

祈ります。


 
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