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2013年12月8日 末竹十大牧師


「誇らない実」

マタイによる福音書3章1節~12節

 

「悔い改めの重さの実を結べ。」と洗礼者ヨハネは言う。「相応しい」という言は、アクシオスというギリシャ語で、「重さ」、「価値」を表す言である。従って、「悔い改め」と同じ「重さ」の実を結べと言うのである。こう言われると、「悔い改めの重さ」が問われていることになる。「悔い改め」とは重いものであって、軽く考えてはならないということである。

では、この重さは誰が量るのであろうか。我々が量る重さは、自らができることとして量るものである。できないことはしなくて良いでしょうと神に求めることにもなる。そして、できないのだから赦してくださると簡単に自分から赦しを受けようとするのである。しかし、ファリサイ派は「悔い改め」と同じだけの重さに励んでいたのではないのか。毎日まじめに律法を守っていると考えていたファリサイ派。彼らは律法に精進していたのだ。使徒パウロも自らがファリサイ派であったことを語るフィリピの信徒への手紙36節で、「律法における義については、非の打ち所のない者」と当時の自分を語っている。だから、ファリサイ派は律法である神の言に従うことにおいて、誰よりも努力していたのである。そして「義」であることを誇ってもいた。そうであれば、「悔い改め」と同じだけの重さの実を結んでいるのではないのか。誰よりも善いことを為しているのだから。それなのに、洗礼者ヨハネはこのファリサイ派に言うのだ。「悔い改めの重さの実を結べ」と。

ということは、ヨハネが言う「悔い改め」とは、律法に精進していること、善いことを行うこととは違うということである。そして、できないのだからこれでも赦してくださると簡単に赦しを受け取ろうとすることもファリサイ派と同じところにいるのである。何故なら、人間が行うことにこそ「重さ」があると考えているからである。できることしかしない人間も、できる限りのことを為す人間も、人間の行為の「重さ」を考えているだけである。できることしかしないということは、「重さ」を自分で決めているのである。このくらいでも良いだろうと自分で決めている。できる限りを行うことにおいても、ここまでしなければと自分で決めている。どちらも人間が決める基準に従って、神の義を受けようとする。神の救いを受けようとする。これこそが「悔い改め」なければならないことなのである。

では、人間が決められない「悔い改めの重さ」であるならば、我々人間が如何に行ったとしても確信は得られないことになる。そうなのである。「悔い改めの重さ」は我々が確認することではないのだ。神が認めるのである。神が認めることを我々がここまでと確定することはできない。できる限りを行っていても、結局人間のできる限りまでで終わっているのである。神が認めているか否かは、人間には確認できない。そうであれば、我々はいつまでも不安の中で、できてもできなくても、どこまでも「悔い改めの重さ」を求めていかなければならないことになる。これは果てしない歩みである。そして、これこそが「悔い改め」なのである。「悔い改めの重さの実を結べ」と言われて、結び得ずとも結ぼうとする歩みである。しかし、人間が結ぶことではなく、神が結ばせてくださる実を求めることである。

我々は、自分が結ぶと考えると、結果的に「これだけの実を結んだ」と自負し、救いを確認したくなるのである。それでは、先のファリサイ派と同じになってしまう。救いを確認できないにも関わらず、神の言に従い続けることである。それゆえに、ルターはキリストは信じる者の生涯が悔い改めであることを求め給うのだと言った。悔い改め続けることは、常に方向転換することである。自分ができるできないというところに落ち込んでしまうわたしが、できなくとも義とされていると安心してしまおうとするわたしが、ただ神の言を聞き、命令に従い続けるように生きることである。少しでも自己確認したくなるわたしをただ従うのだというところへ方向転換することである。「悔い改め」とは、ただ神に従うことであり、自らの努力、自らの確認、自らの重さを放棄することである。しかし、そのとき、我々は神の言の中に生きているのである。自ら確認するとき、神の言の外に生きている。自ら努力してなすわたしを神が助け給うと考えるとき、神を自らの僕にしている。できないわたしを神は救い給うと簡単に努力を放棄するとき、神の救いを安価な使い捨ての恵みにしている。このようなところに生きることを放棄することこそが「悔い改め」なのである。神が主体であることを常に忘れ、自分が主体である世界に生きる我々が悔い改めるべきは、神の主体の中で永遠に神に向かって生きることである。それは果てしのない道である。しかし、その道にある者にとっては、神共にいます道である。何もない裸のわたしで、神に従い続ける道である。殻を取り払われた麦そのものとして、裸の麦として生きることである。それは「誇らない実」として生きることである。

我々は自ら「実を結んだ」と誇ってしまう。そして、神が結ばせ給うた実を失ってしまう。そのとき、我々は実を失って、殻だけになっているであろう。そして、焼き払われるのである。それでは、「実を結んだ」ということが我々を失わせることになるのだ。実を結ばせるのは神であり、神に従い続ける中で結ばれていくものである。どれだけ行ってもなお、「悔い改めの重さの実」にはなり得ていないことを認めつつ、求め続けることである。たどり着けない重さの中に生きることである。それこそが、我々がキリストの十字架の重さを受け取ることである。

キリストの十字架は、どこまでも到達できない至高の重さである。我々に担えない重さを担い給うたのがキリストなのだ。何故なら、我々人間すべての重さを担っているキリストなのだから。それゆえに、我々は実を誇ることはできない。結ばれたならば感謝し、誇ることなく、結ばれた実を神に献げて、新たに歩み続ける。結べなければ悔い改め、新たに結ばせ給えと祈りつつ歩む。この繰り返しの中で、我々はキリストに従うのである。

このような歩みを、我々は苦しいと思うだろうか。それこそ、罪が我々を苦しめているのである。キリストが苦しめているのではない。我々のうちに住んでいる罪が、苦しいだろうと我々の足を引っ張っているのである。たまには褒めて欲しい。たまには良くやっていると認めて欲しい。そう思うものである。そのとき、我々は「これで良いのだ」と勝手に、歩みを止めてしまうであろう。そして、歩むようにと置いてくださった道を離れてしまうのである。いや、自分の歩きやすい道を作ってしまうのである。

キリストが負われた十字架は、我々が自分の道を作ったがゆえに、起こったことである。それゆえに、キリストが負ってくださった我々の担うべき十字架は、我々が担いきれない重さをもっている。この重さに見合った重さの実を我々は結ぶことを求めなければならないのだ、キリストの十字架によって罪赦されたと信じているのであれば。そのように生きてこそ、我々はキリストの十字架の重さの中に生き続けることができるのである。キリストと共に生きることができるのである。

クリスマスに生まれ給う乳飲み子は、誕生の始まりから重さを負わされていた。乳飲み子は、社会から排除され、低くされている者たちに見出されるために生まれたのだ。それゆえに、飼い葉桶の乳飲み子の上に、人間が排除している低き者たちの重さが負わされているのだ。この乳飲み子こそ、人間すべての罪の重さを負うお方。このお方をお迎えする我々は、乳飲み子に負わせてしまっている我々自身の罪を見つめなければならない。小さな存在に負わせてしまっている重さを思わなければならない。そして、生涯悔い改めて生きて行く道を歩み続けなければならない。そのとき、あなたは自分の力を捨て、自分を捨てて、キリストをありのまま受け入れ、キリストに包まれ、キリストと共に生きるであろう。誇らない実を結びながら。

 祈ります。


 
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