2013年12月15日 末竹十大牧師
「共なる神」
マタイによる福音書1章18節〜25節
「彼の名をイエスとあなたは呼ぶ。」と天使は言う。その通り、ヨセフは生まれた子を「イエス」と呼んだ。これが「預言者を通して、主によって語られたことが満たされるために」と言われていることなのか。預言者は「彼の名をインマヌエルと彼らは呼ぶ」と預言していたのに。「彼ら」ではなく、「彼ヨセフ」が呼ぶのだ。預言においては、「イエス」という名ではないし、「彼ら」であって「彼」ではない。預言どおりに行ったとは言えない。ただ、ヨセフは天使が語ったとおりに行ったとは言えるが。
「乙女が身籠もって息子を産む」という預言は、確かにマリアにおいて実現しているかに思える。しかし、預言者は「乙女が身籠もって息子を産む」と預言しただけであり、マリアがそうであるとどうして言えるのだろうか。「乙女」が「処女」を意味するとしても、マリアが「乙女」と言われていることによって、「処女懐胎」が実現していると言えるのだろうか。どうして、イエスが「インマヌエル」なのだろうか。預言とは何も合致していないと思えてしまう。果たして、預言の通りにイエスは「インマヌエル」なのだろうか。
「インマヌエル」とは「我らと共なる神」という意味である。「イエス」とは「主は救い」という意味である。ここに一致点があるのだろうか。確かに、「共なる神」でなければ「救い」を与えてはくださらないだろう。「救い」を与えるのは、「共なる神」だからであると言える。つまり、神が主体として「共にいる」ということであり、「救い」は「主」が主体として実行することである。そうであれば、「主が救い」であることと「我らと共なる神」は一つであると言える。それでもなお、名が違うということに変わりはない。
預言者が語ったことが満たされるのは、このイエスにおいてなのだと誰が認めるであろうか。誰が、納得するであろうか。ヨセフは、預言者の言葉まで天使から聞いたのだろうか。それゆえに、天使の言葉に従って、ヨセフはマリアを迎え入れるのだろうか。そう思えるが、「イエス」と呼ぶのは、天使の言葉のゆえであれば、天使の言葉は一致していないことになる。従って、天使の言葉は預言の言葉の前までであって、引用はマタイがしたのだと考えることになる。そして、マタイが預言の言葉と一致しないにもかかわらず、マリアの懐胎の出来事として記述したのだと考えるのである。そうすれば、理解できる。しかし、そうすることで、マタイは引用を勝手に解釈していることになる。共なる神「インマヌエル」は、イエスなのだろうか。イエスはインマヌエルなのだろうか。「我らと共なる神」とはどこにおいて見いだせるのか。ヨセフにとって、イエスは共なる神なのか。
ヨセフは、義しい人だったので、マリアの懐胎を知って、秘かに別れることを望む。それは、義しい人なのだろうか。義しい人とは、冷たい人なのだろうか。マリアを放り出して、自分は平然と生きて行くのが義しい人なのだろうか。そうである。自分の義しさを主張する人間は義しくないことをしないのだ。人から批判されることをしないのだ。人から批判されること、蔑まれることを避けるのである。そして、自分の義しさを守る。それは本当に義しいことなのだろうか。いや、義しいと自負している人間は、義しくない。むしろ、義しくないと認識している人間の方が義しい。
ヨセフが義しい人だったと言われているのは、ヨセフが自負している義しさであろう。それゆえに、マリアと秘かに別れることを望むのである。自分の義しさを壊したくないために。しかし、ヨセフに天使が現れる、夢で。夢を見るヨセフの心は、義しさを守るという大義名分では割り切れないでいたのだ。割り切っていれば、夢にうなされることはないからである。ヨセフが夢を見たということにおいて、ヨセフの心は揺れ動いていたのだ。しかも、ヨセフは「聖霊から生じた懐胎」であるとマリアから言われても素直に信じることができなかったのである。それゆえに、別れることを望んだのだから。それでもなお、ヨセフはこの決断が義しいのかどうか分からないで悩んでいたのであろう。神は、ヨセフの夢に入り込んできた。そして、天使が言う。「ヨセフ、ダビデの子。恐れるな、マリアをあなたの妻として受け入れることを」と。「何故なら、彼女のうちに身籠もられているものは、聖なる霊から生じているから」と。ヨセフは恐れていた。自分が不貞を働かれたと馬鹿にされることを。自分が義しいと自負していたことが壊れることを。愚かな男だと言われることを。それゆえに、ヨセフは秘かに別れることを望んだのだ。しかし、それで良いのかと考えてもいる。義しく生きて行きたいと願っているヨセフであるがゆえに、悩み苦しむのだ。そのヨセフの恐れを知って、神は彼の夢に天使を遣わす。そして、ヨセフは夢によって、天使が語ったとおりに行う。
普通なら、夢から覚めて、「ああ、夢だったのか。おれも疲れているんだな。」と思ったであろう。そして、自分の思いに従って、行動したであろう。しかし、ヨセフは夢を真に受けるのである。それだけ純粋に悩んでいたと言えるであろう。夢さえも、神の啓示と認識するのだから。そして、夢の通りに行うのだから。
ヨセフは確かに義しい人だったのだ。悩み苦しむほどに義しい人だったのだ。そして、自分の悩みの中に共にい給う神を知ったのだ。自分の悩みがいかに自分勝手であるかを知ったのだ。神の出来事を自分の義しさを守るために、拒否しようとしていた自分を知ったのだ。それゆえに、ヨセフは義しい人だった。自分を問題にできるほどに、自分の罪を見つめていたからである。そして、その罪の中にわざわざ入って来てくださる神を知ったのだ。そのとき、彼は自分の罪から救うお方を知った。罪の中に入ってくるお方を知った。それは「我らと共なる神」インマヌエルであると。そして、罪の中に主体的に入って来てくださる救いがあると。ヨセフは、「主は救い」という名で、息子をイエスと呼んだのだ。イエスが生まれたとき、その名を呼ばざるを得なかったのだ。自分の罪の苦しみの中に共にいてくださった神こそ、救いであると知ったからである。この子はイエス、主は救いである。この子ゆえに、わたしは救いを知ったとヨセフは、生まれた子をイエスと呼んだのだ。
神が共にいるということは、幸いの中ではない。むしろ、苦しみの中に共にいる神なのである。そして、苦しみを引き受けるように力を与える神こそ、共なる神である。幸せなとき、順調なときには、我々は神を求めない。苦しいとき、悲しいときにこそ、神を求める。神がわたしを苦しみから解放して、良い状態にしてくださるようにと求める。苦難の回避を求める。しかし、共なる神は、苦難の中にこそ共にいる神である。苦難を負う力を与える神こそ、神である。何故なら、我々は苦難よりも幸いを求めるからである。苦難を回避して、幸いにしてくれる神こそ神だと思っているからである。ところが、共なる神は、苦難の中に入っていく力を与え、苦難を背負わせ、乗り越えさせ給う神である。
ヨセフは、この神を知ったのだ。彼の苦悩の夢の中に介入して、彼が苦難を負うことができるようにしてくださったのだから。このお方こそ、インマヌエルである。このお方こそ、イエスである。ヨセフが呼んだように、主は救いという名を与えられた神の子である。
ヨセフの苦難の中に共にいてくださった神は、イエスであった。そして、イエスご自身は我々の罪を担い、苦難を受難として引き受けられた。こうして、我々には平和が与えられ、イエスは十字架で死ぬのだ。十字架の死を通して、我々を救い給うお方なのだ。イエスの誕生は、ヨセフの苦悩の中に生じた。苦難を引き受けるヨセフによってイエスは、ヨセフの子として生まれた。イエスの十字架はヨセフのためにも生じていたのだ、ヨセフの中で。
今日共にいただく聖餐は、苦難を負われ、苦難から救い出し給うイエスの体と血。我々のうちに、苦難を負う力となり給うイエスの体と血。感謝して受ける者に、主は救いとなり給う。共なる神として。
祈ります。
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