2013年12月24日 末竹十大牧師 クリスマス・キャンドル礼拝
「低きに置かれ」
ルカによる福音書2章1節〜20節
「そして、彼女は最初の彼女の息子を産み、彼を布にくるみ、飼い葉桶の中に彼を横たえた。」と言われている。「飼い葉桶の中に彼を横たえた」のである。マリアは旅の途上で、「場所のない」ときに最初の息子を産んだ。それゆえに、「飼い葉桶の中に彼を横たえた」のである。この出産は、最も低き出産である。飼い葉桶の中に横たえられる乳飲み子。彼は、この世で最も低きところに置かれた存在である。この世の生の始まりが「飼い葉桶」であったイエス。このお方は生まれたように死んでいく。生まれたのが「飼い葉桶」であれば、死ぬのは「十字架」である。その人生の最初と最後が最も低きところに置かれたのである。イエスの人生は、最も低き人生であった。神は、彼にこのような人生を与えた。「救い主」と言われているのに、この世では最も低きものとされているのだ。どうして、このような人間が「救い主」であろうか。
しかし、天使は羊飼いたちに言うのだ。「これがあなたがたにとってしるしである。あなたがたは見出すであろう、乳飲み子を、布にくるまれて、飼い葉桶の中に置かれている乳飲み子を。」と。「飼い葉桶の中に置かれている乳飲み子を見出すこと」が「しるし」だと言われている。何の「しるし」なのか。神を指し示す「しるし」である。「しるし」というものは、それ自体が本体ではなく、本体を指し示すものである。つまり、「飼い葉桶に置かれている乳飲み子を見出すこと」が神を指し示す「しるし」だと言われているのである。何故なのか。それは、羊飼いたちがその有様を見出すことができるということにおいて、神が見出させることが示されているからである。これは、誰でも自動的に見出すのではない。神が見出させる働きに従って見出すということである。神の言に従って見出すということである。神の言に従わないならば、羊飼いたちは見出すことはないであろう。彼らは単なる乳飲み子を見出すわけではないのだ。あるいは、救い主に相応しいと彼らが考える「救い主」を見出すわけでもない。ただ、神が語られた通りに「飼い葉桶の中に置かれている乳飲み子を見出すこと」こそが「しるし」だからである。
この「しるし」は、彼らが見出すということにおいて、彼らにとって「しるし」となる「しるし」である。彼らが神の言に従って探し求め、見出すのだから、彼らにとっての「しるし」なのである。他の人間には示されていない「しるし」なのだ。他の人間がたとえ「飼い葉桶の中に置かれている乳飲み子」を見たとしても、誰も「しるし」だとは思わないからである。「こんなところに置かれて、なんと惨めな子だろうか」と思うのが関の山である。そこに「救い」はない。そこに神はいない。そこに神の言はないのだ。
羊飼いたちが聞いた天使の言葉は、神の言である。神の意志である。彼らに見出されることを願った神の意志である。それゆえに、乳飲み子は「飼い葉桶の中に置かれている」のである。この世で、最も低きところに置かれている乳飲み子。この世で、哀れと思われる乳飲み子。この世の家の中に、場所のない乳飲み子。それゆえにこそ、羊飼いたちが見出すことができる乳飲み子は、羊飼いたちに語られた神の言なのである。彼らが神の言に従ってこそ、見出すことができる「しるし」なのである。彼らが見出すことができたとき、彼らは知るのだ、「神がわたしを顧みてくださった」と。この世の最も低きところに置かれた乳飲み子が彼らに神の顧みを指し示す「しるし」となる。それゆえに、乳飲み子は「救い主」なのである。
最も低きところに置かれ、最も低きところに生きる羊飼いに見出される乳飲み子。この救い主は、この世で最も低くされている存在を救うお方である。最も低きところに生まれ、最も低きところに死ぬ救い主である。世の人が思い描く「救い主」の姿はどこにもない。力強く支配する「救い主」の姿はどこにもない。権力者を追い散らす「救い主」ではない。ただ低きに置かれた存在である。この低きに置かれた存在こそが、羊飼いたちの救い主である。彼らを彼らの窮状から救い出し、王の位に就けてくれる「救い主」である。しかし、その救いだしと就任とは、信仰における救い出しであり、就任である。キリスト者としての自由を生きることができるようにしてくださる救いである。
羊飼いたちの職業は最も低い職業である。蔑まれた職業である。彼らは夜中に家族を守ることができない愚かな人間だと見られた。羊を追いながら野原を過ぎ行くことによって、汚れてしまうと思われた。そのような低き職業に就かざるを得ない彼らは元々汚れた家の汚れを受け継いでいるのだと思われてもいる。そのような羊飼いたちが、「救い主」に出会って、職業が変わるわけではない。王の位に就けるわけではない。変わらずに羊飼いである。しかし、「救い」を受け取った羊飼いである。この世の地位は変わり得ない。変わり得ないこの世の中にある羊飼いという職業。しかし、彼らは自らが神に顧みられていることを受け取った。それゆえに、この世の低い職業にあっても、救いを生きることができる。神が与え給うた職業として、神に従って生きることができる。自らの家系の汚れに悩むことはない。神が与え給うた職務として彼らが羊飼いを喜び生きるからである。神に顧みられている羊飼いとして生きるからである。
羊飼いと同じように低められているマリアも、彼らが語ったことを心に思いめぐらしていた。低くされている存在が神に顧みられたということを思いめぐらしていた。彼女も同じ境遇から、神の顧みを受け取ったのだから。マリアも羊飼いも低くされている存在。この世の低き者を神は顧み、用い給う。マリアも羊飼いも自らの境遇を悲しむことなく、新たに神が与え給うものとして、顧みを受け取って生きて行くのだ。雄々しく生きて行くのだ。低きに置かれた乳飲み子は、このような人々の「救い主」である。王宮にいる人には馬鹿馬鹿しい「救い主」である。地位のある人には愚かな「救い主」である。力のある人には弱々しい「救い主」である。低きに置かれているだけの哀れな乳飲み子である。しかし、羊飼いやマリアにとっては「神の子、救い主」である。わたしたちのために生まれた「救い主」である。わたしたちのために飼い葉桶に置かれている「救い主」である。
イエス・キリストは、この世の最も低きところに置かれた。その生涯の初めと終わりは、最も低きところにある。低められている者たちが救われるために生まれる「救い主」である。このお方こそ、我らの主イエス・キリストである。十字架に死ぬイエス・キリストである。低きに置かれる救い主である。今宵、生まれ給うイエス・キリストは、低きところから救いの業を始める。低きに置かれて救いを広げる。小さき存在に救いを満たす。弱き存在から救いが溢れ出して行く。ご自身の十字架という苦難を、神が与え給う受難として引き受けて行くイエス・キリスト。このお方は、生まれたときも、神が与え給う低さの中に生まれることを受けざるを得なかった。受けざるを得ないものを神が与え給うものとして引き受けて生きるとき、そこに救いが生じる。それは、自分を救うだけではない、他者の救いである。キリストは飼い葉桶の中に置かれることを生きることで、羊飼いを救う。自らは置かれたところで生きる。そして、他者を救うイエス・キリスト。
我々が救われているということは、他者の救いのために生きることである。神が置かれたところで生きることである。神が与え給う職務を生きることである。救われている者は、自らの救いを得ようとはしない。救われているからである。そして、他者のために働くことができる。神がその職務を与え給うたと信じるからである。こうして、羊飼いたちは救いを生きるのである。マリアも羊飼いも、低きに置かれた乳飲み子によって救われている。自らの低きを知る者は、乳飲み子に出会うであろう。あなたの低さは、救い主に出会う恵みである。あなたは、遣わされていく。この世の低きに置かれている人たちに救いを伝えるために、羊飼いと共に。
クリスマスおめでとうございます。
|