2013年12月29日 末竹十大牧師
「満たされる語り」
マタイによる福音書2章13節〜23節
「その結果、預言者を通して、主によって語られたことが満たされた」と三度語られている。預言者を通して語られたことは、主なる神によって語られた言。「満たす」ということは、すべてに行き渡ることであり、欠けているところがないということ。従って、神の言がこの世界に欠けなく満ちている。満たされた語りとは世界に行き渡った言である。
神の言が世界に行き渡る。神の言が世界中を満たしている。我々の現実の中に行き渡っている神の言。しかし、我々はただの現実としてしか認めない。神の言が満たされているとは認識しない。イエスを連れてエジプトに逃げ、イスラエルに戻ってナザレに住むマリアとヨセフ。ベツレヘム近隣の嬰児の死。これらは、現実としては権力者からの逃亡であり、権力者による虐殺である。そこに神の言が満たされていると誰が思うであろうか。逃げ回るマリアとヨセフ。殺される嬰児たち。神がおられるならば、逃げ回らないようにしてくれて良いではないか、殺されないようにしてくれて良いではないか。それなのに、これらの悲惨な出来事が神の言が満たされたことなのだと聖書は語るのである。これらは、人間の罪が起こしたことではないのか。それなのに、神の言が満たされたとどうして言うのだろうか。殺されることが神の言の満たしなのか。逃げ回ることが神の言の満たしなのか。それでは、この世の苦難において、神の言が満たされているのだろうか。この世の虐殺において、神の言が満たされているのだろうか。神の意志がそこに満ちているのだろうか。
「エジプトから我が子を呼び出した」と神は語り、「ナザレ人と彼は呼ばれる」と語った。預言者エレミヤを通して語られた言は、慰めを放棄した母の嘆きの声。これらは、善きことなのか。これらは、神の業なのか。いや、神の言が満たされることなのだ。神の言が満たされることは、善きことだけではない。人間の罪の現実が現れることも、神は語っておられるのだから。神が語り、人間が神の意志に従わない罪の現実が現れる。これも神の言が満たされていることである。神が警告していたことも、神の言である。神がこうならないようにと願っていたことも、神の言である。人間は罪に流され、そうなってしまう。とすれば、我々は神の言に従って、罪を犯しているのか。いや、神の言に従わないことにおいて、神の言を満たしているのだ。人間は、神の言に従わず、罪を犯し、神の言を満たす。世界中に満たす。世界は罪の世界となっている。我々人間が神の言に従わないことによって、神の言に従って罪の現実が現れる。これが今日、語られている神の言の満たしである。
我々は神の言を罪に従って満たす。罪に従う我々の世界に神の言が満たされる。世界は、神に従わない世界として罪を満たし、罪を満たすことで、神の言を満たす。それは、神の言が真実であることを満たすことである。我々人間が神に従わないことは、神の言が真実であることを明らかにすることなのだ。我々が罪深く、罪に支配され、罪を犯さざるを得ない存在であることを明らかにすることである。こうして、神の言は反対の相で満たされてしまう。それが我々人間の世界である。確かに、神が語られた通りに、嬰児殺しが起こる。語られた通りに、エジプトへの逃亡と呼び出しが起こる。語られた通りに、ナザレ人と彼は呼ばれる。これらは、人間の罪が満たしてしまった神の言である。人間の罪は実現している。この世界に実現している。そして、罪が世界を満たしている。この世界の中で、乳飲み子イエスは翻弄されているかのようである。エジプトに逃げ、ナザレに逃げる。嬰児たちは殺され、ヘロデは胸をなで下ろす。イエスが救い主であるとは、人間の罪に翻弄されることなのか。罪に弄ばれ、罪に侵略され、罪に満たされる。それが救い主なのだろうか。そこに神はどう関わり給うのか。救いとは何なのか。
これがマタイが語る救い主の最初の働きである。罪の世界に送られた救い主の働きである。救い主が神の言の満たしに関わっている。イエスが生まれなければ、ヘロデの罪は嬰児殺しに至らなかっただろう。イエスが生まれなければ、マリアとヨセフはエジプトに行かなかっただろう。これが救い主の最初の働き。そして、神の言を満たす働き。罪に翻弄されつつも、神の言が満たされていく。イエスがいなければ、神の言の満たしは起こらないのだ。
この世界において、嬰児殺しは他でも起こっていた。逃げ惑う夫婦は他にもいた。しかし、そこにイエスがいることで、神の言が満たされるのだ。ということは、イエスがおられることによって、単なる殺害から、神の言を満たす殺害に変わっているのである。イエスがおられることによって、単なる逃亡から、神の言を満たす逃亡に変わっているのである。イエスがおられることによって、ヘロデの罪は神の言を満たしてしまうのである。神への反逆であろうとも、神の言を満たしてしまうのである。これがイエスが救い主であることなのだ。
イエスがおられるところ、イエスが生まれたところには、神の言が満たされてしまう。そして、満たされた神の言、神の語りは、神の真実を指し示すのだ。人間の罪の本質を指し示すのだ。神の言を満たしてしまう人間の罪の本質を明らかにするのだ。ヨセフが聞いた天使の言の通り、「彼自身が、彼の民を救う、彼らの罪から」ということが起こっている。イエスがおられるがゆえに、神の言が満たされている。ということは、神の言としてイエスは罪の中に入ってこられたのだ。罪から救うために、入ってこられたのだ。誰もが行っている罪が、神への反逆の罪であることを明らかにするために、イエスは来られたのだ。イエスが来られた以上、我々はイエスに関わりなく、罪を犯すことはなくなった。我々の罪のすべては、イエスとの関わりの中で、神の言を満たしてしまう。我々は神の言に反逆する者として確定されてしまう。誰でも犯している罪なのだと言い逃れできない。あなたの罪はイエスとの関わりの中で、神への反逆である。神を神としない罪自身が、あなたのうちに住んでいるゆえに、あなたは神に反逆するのである。この反逆を通して、我々は神の言の真実を満たす。
イエスは、そのようなお方として、この世に来られた。我々の罪の本質、神への反逆を明らかにするために来られた。このお方が、我々の罪の本質を明らかにする。神に敵対しているわたしを知り、神の前にひれ伏すしかなくなる。罪深き、神への反逆を認めるがゆえに、ひれ伏す。罪から逃れられない自分自身を知るがゆえに、神に救いを求め、神を真実とする。このわたしは、罪を知らずに生きていたが、イエスが来られたので、罪を知ることになった。罪を知らされ、神の真実の前にひれ伏すようにされた。このことこそが、我々の救いである。イエスは、乳飲み子であっても、救い主である姿を生きておられる。十字架に架かる姿を生きておられる。十字架で明らかになることが、今日すでに満たされている。神の言が満たされている、乳飲み子イエスによって。
ベツレヘムの幼子たちも、イエスによって神の言を満たしている。彼らの死はイエスとの関わりの中に置かれている。幼子たちを殺す罪が、この世を満たしていることを引き受け、死に給うた十字架のイエス。このお方が、この世界に満たされている罪をすべて引き受け給うたのだ。人間の罪によってもなお失われないお方のうちに、ベツレヘムの幼子たちは生きているのだ。
今日、共にいただく聖餐を通して、我々はイエスの死を宣べ伝える。我々と同じ神への反逆という罪を犯し続ける人間のために死に給うたイエスを宣べ伝える。ご自身のゆえに殺された幼子たちのいのちを救い給うイエスの体と血に我々は与る。神に背く罪から救い給えと祈りつつ、与る。キリストの十字架によらなければ、わたしは救われない罪人である。このわたしの罪が、幼子たちを殺害し、イエスを追い出したのだ。どうか、わたしのうちにキリストが生きてくださるように祈ろう。あなたが如何に罪深くとも、神の言は満たされている。キリストの十字架において、乳飲み子イエスにおいて、満たされている、わたしを救う語りとして。
祈ります。
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