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2014年1月1日 末竹十大牧師
主の命名日礼拝


「主は救い」

ルカによる福音書2章21節〜24節

 

「彼を割礼する八日の日々が満たされたとき、彼の名はイエスと呼ばれた。それは天使によって呼ばれた名、胎のうちに彼を宿す前に。」と、天使が呼んだ名を付けられた乳飲み子。その名は「主は救い」という名である。ギリシャ語でイエスース、ヘブライ語でイェホシュア。「主は救い」という名を生きるように、天使を通して、神が呼んだ名である。この名で呼ばれることによって、イエスはいつも「主は救い」と呼びかけられることになる。自らの名を呼ばれるたびに、彼は「主は救い」と教えられる。自らの名を呼ばれて、信仰を教えられる名。それがイエスである。

八日目にイエスが受ける割礼も「主は救い」を表すしるし。それは契約の際に、アブラハムに命じられたこと。アブラハムに与えられた契約が割礼を受ける者に及ぶ。契約は、契約を起こす神が主体であり、神の主体の中でユダヤ人は神の契約を生きる。契約を起こすのは神。契約を守るのは神。アブラハムに与えられた契約は、祝福の約束である。割礼を受けることによって、契約の中に入れられる。神の祝福がその人を包む。祝福の契約を与えられたしるしとして割礼が与えられる。ユダヤ人は、こうして契約を覚え、契約に入れ給う主こそ救いであることを覚えとしたのだ。他の何によっても救われ得ない人間を救い給うお方を仰いだのだ。

イエスは、割礼を受け、「主は救い」という名を与えられた。従って、イエスは神の契約の中に入れられた。彼が「主は救い」という名を生きるとき、神の契約が彼を守る。神はイエスを祝福しておられる。アブラハムの祝福がイエスの上に確実に生きて働いている。そのしるしこそ割礼である。与えられる祝福を受け取ることだけがイエスが祝福をいただくこと。祝福を受けることができる立派な人間になって受けるのではない。生まれて間もない乳飲み子が契約の中に入っているのだから。八日の間、祝福の中におらず、契約を受けていなかったわけではない。八日は、割礼というしるしを記されるための期間である。イエスは契約を理解してはいない。生まれたばかりの乳飲み子なのだから。しかし、契約の中に入れられている。そのしるしとして割礼が与えられた。これからイエスは、しるしとしての割礼を身に帯びつつ生きる。洗礼の際に、割礼の意味が自分のものとなるとき、与えられているものが現実に働いていたことを知るであろう。母の胎から生まれ出たときから、いや母の胎にいたときから、わたしは神の契約の中に生かされていたのだと。

契約は、我々人間が良い人間になって入れられるものではない。人間が良かろうと悪かろうと入れられているのである。神が契約を起こしたのだから、我々が知らぬうちに起こしたのだから。それゆえに、契約はすでにある。イエスの上にも神の契約が生きて働いている。イエスは、その中に真実に生きることをこれから求めていくのだ。その名「主は救い」を求めていくのだ。この名が明らかになるのは、あの十字架においてである。究極の死において、「主は救い」が明らかになる。救いなき十字架において「主は救い」が明らかになる。これがイエスが生きる人生の終極である。今はまだ始まったばかり。「主は救い」という人生が始まったばかり。終極に向かって始まったばかり。イエスは、「主は救い」を生きるべく、生まれた。神はその意志をもって、イエスを名付けた。神に名付けられた名、神に与えられた割礼、神に与えられた契約。従って、イエスは神のものとして生きる、最後まで。神の意志を生きる、終極まで。神の言に従う、十字架に至るまで。

我々が呼ぶイエスという名は、神が与え、神が命じ、神が生かす名。イエスが自らの名を呼ばれるたびに「主は救い」ということを見つめさせられたように、我々もイエスの名を呼ぶとき、「主は救い」ということを見つめるのだ。我々がイエスの御名によって祈るとき、我々は「主は救い」という信仰を通して祈っているのだ。主イエス・キリストの御名によって祈る我らは、「主は救い」という信仰を表明しつつ、「主は救い」であることを信頼して、祈るのだ。そのとき、我々の祈りは「主は救い」であることを我々に見させる。祈りの結果、我々が「主は救い」であると信頼することへと導かれるならば、我々はイエスを見たのだ。イエスの名の中に入れられたのだ。「主は救い」を見せられたのだ。

イエスが受けた割礼は、ユダヤ人としての割礼である。しかし、エレミヤが言う如く、「心の包皮を取り去る」ことこそが、真の割礼である。イエスは、真の割礼を生きる者として、十字架において、新しい契約を起こし給うのである。エレミヤは3133節で預言している。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と。新しい契約は、イエスの血において起こされた。イエスの十字架において起こされた。我々の心に記された律法。これが我々を新たにする契約である。

「主は救い」という信仰を生きたイエス。十字架に至るまで神に従順であったイエス。「主は救い」という名を生きて、死んだイエス。「主は救い」という名において死んで、起こされたイエス。このお方こそ、我らの救い主。このお方を通して、我々は新しい契約に入れられる。心に記された律法に従って。

心に記された律法は、復活のイエスご自身である。地上の十字架に死に、神の力によって生きておられるイエスご自身である。心に記された律法は、我々を教え導く神の意志。心に記された律法は、我々を従う者とする神の意志。心に記された律法は、我々のうちに生きてくださるイエス。我々を神の意志に従うように造り替えてくださるイエス。新しい契約に仕える大祭司イエス。このお方を死者の中から引き上げられた神ご自身が、我々のうちに働いてくださる、イエスを通して。イエスの名によって、我々は救われている。イエスの名によって、十字架が明らかになる。イエスの名によって、我らの罪は働かなくされ、神の意志のみが貫徹される。この信仰へと導き給うお方こそ、「主は救い」との名を与えられたイエスである。

今日、共にいただく聖餐は、イエスの体と血。我々のうちに入り来たり、ご自身と一体としてくださる神の賜物。我々を造り替え、我々を神のものとして生かし給う神の力。「主は救い」を生きることができるようにしてくださる恵み。感謝して、受け、生きて行こう「主は救い」なる世界を。あなたはイエスと一つとされるのだから。
  祈ります。