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2014年1月5日 末竹十大牧師


「油注がれた者」

マタイによる福音書2章1節〜12節

 

「民の祭司長たちと律法学者たちすべてを集めて、彼について、彼は尋ねた。キリストはどこに生まれているのかと」。東の方から来た占星術の学者たちの問い、「ユダヤ人の王の誕生はどこなのか」について、ヘロデ大王はユダヤ人たちに尋ねる。彼は「ユダヤ人の王」ではなく、「キリスト」と言っている。どうしてなのか。我々は「キリスト」を、イエス・キリストの姓だと考えている。しかし、イエス・キリストという名は、「キリストであるイエス」という意味である。一般的な姓と名ではないのだ。「主は救い」という名をいただいたイエス。「このお方がキリストである」という信仰の表明であり、信仰によって呼ばれる名なのである。

「キリスト」はギリシャ語であるが、ヘブライ語の「マーシアハ」をギリシャ語に訳した言葉である。ヘブライ語でもギリシャ語でも意味は同じ。「油注がれた者」という意味である。我々が考えているような「救い主」という意味ではないのだ。「油注がれた者」とは、実際に頭にオリーブ油を注がれる。王は「油注がれる」ことによって神から支配する権能を与えられる。地上の王は神の権威を与えられて、民を支配するのである。しかし、当初神は人間の王を立てることが良きことだとは思っていなかった。預言者サムエルも、「他の国のように王を立てて欲しい」と訴える民に対して、反対している。しかし、神はサムエルに言う。「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」と。そして、サウルが油注がれる。しかし、サウルは神の意志に従わず、神から捨てられる。次いで、ダビデが油注がれる。こうして、神を退ける民の求めに従って、人間の王が君臨することになった。ただし、神の意志に従うように民を導く王が良き王であり、神の意志に従わないように導く王は悪しき王である。人間の王は、自分の立場を守るために、人間である民の声に耳を傾ける。民の求めに従う。ついには、ユダヤ人の王は駆逐され、異邦人の王がユダヤ人を支配するバビロン捕囚が起こる。バビロンの地において、人々は神に油注がれた王、マーシアハが自分たちを救ってくれると信じ、キリストの誕生を待っていた。

一方、ヘロデ大王は異邦人であるローマ帝国の委任を受けて、ユダヤを支配していた王である。その王が、「ユダヤ人の王の誕生」という言葉を聞いて、「キリスト」と呼ぶのは当たり前なのである。彼はユダヤ人たちが、自分たちを救うマーシアハを待ち望んでいることを知っていたからである。「油注がれた者」キリストが生まれる場所、それが引用されているミカ書51節以下である。いと小さきベツレヘムに生まれる者こそ、キリスト、マーシアハ、「油注がれた者」であるとミカが語っているというのである。

これを聞いたヘロデは、自らがキリストではないことを知っているがゆえに、キリストの誕生を恐れる。自分はキリストに駆逐される存在であると認識し、恐れるのだ。ヘロデ大王は、そう認識しながらも、ベツレヘム近郊の二歳以下の嬰児たちを殺害する。嬰児のうちに殺害しておけば良いと考えたのである。ところが、神がイエスを守り給い、ヘロデはイエスを殺害することができなかった。イエスは、この世の権威によっては殺害されないのである。何故なら、イエスの権威は神から油注がれる権威だからである。では、油注ぎは、どこにおいて起こっているのだろうか。イエスの誕生においてなのか。いや、聖霊による身籠もりにおいてである。そして、イエス自身の自覚としては、洗礼において起こるのである。「油注がれた者」として身籠もられたイエスは、洗礼において自覚を得る。それまでは、神が油注いだこと自体が、彼を守るのである。人間は、神による油注ぎを覆すことはできない。ヘロデ大王が如何に手を尽くしても覆すことはできない。神の権威に逆らうことはできない。これが「油注がれた者」を守る神の権威である。この権威の下に、イエスは生きて行く。この権威の下に、十字架に架かる。それゆえに、十字架に架けられてもなお、神の権威、神の油注ぎは失われない。イエスは死んでも生きるのである。

占星術の学者たちは、ヘロデ大王から「ベツレヘム」という地名だけは聞くことができた。しかし、ベツレヘムのどこに生まれているのかは分からない。ヘロデ大王も、彼らが探し回らなければならないことを承知で、「見つけたら、教えてくれ」と言う。彼らが見つけ出すことができるかどうかはヘロデであっても分からない。ところが、彼らがヘロデの言葉を聞いて、外にでると、東方で見た星が現れる。星は、彼らを導くかのように、夜空を走り、あるところに止まる。そこに「油注がれた者」の誕生が起こっていると、星が示したのである。

しかし、星が止まったとしても、地上のどこを指しているのか分かるものであろうか。どれほどの精度で場所を特定できるであろうか。もちろん、占星術の学者たちは、天体観測に長けていた。それゆえに、その星の位置が示す場所を特定できたと言えるかも知れない。一般的には、おおざっぱにしか分からないであろう星の下の場所が、彼らには特定できたのである。それゆえに、すぐさま彼らは幼子を見出した。幼子がいる家に入ったと聖書は記している。

彼らが油注がれた者として見出した幼子は、「母マリアと共にいた」。幼子が主語である。幼子が主体である。幼子が「共にいる」と言われている。幼子はインマヌエル「我らと共なる神」だからである。幼子を拝む占星術の学者たち。彼らは、自分たちとも共にいる神を拝んだのだ。異邦人たちとも共にいる神が幼子イエスであった。それゆえに、彼らは「ヘロデのところに帰るな」とのお告げを夢で受けるのである。幼子が共にいるがゆえに、彼らは守られたのであり、幼子は油注がれた者であるがゆえに守られたのである。

こうして、イエスは油注がれた者として、異邦人に拝まれ、異邦人をも救うキリストとして認識された。しかし、ユダヤ人たちは認識していない。異邦人の学者たちだけが認識した。低くされている異邦人のためにもキリストが生まれている。共にいる神、インマヌエルは低くされている存在と共にいる。地上の権威であるヘロデとは共にいない。彼がイエスを拒否するがゆえに、共にいることはない。キリストは、神の権威に従う者と共にいるのである。

我々は、キリストが共にいると信じる。我々と共にいると信じる。その信仰は、ただ神の権威を認める信仰である。神が神であることを認める信仰である。人間的な力では排除できないキリストを信じる信仰である。この信仰においてこそ、キリストは「共にいる神」としてご自身を現すのである。その信仰は、人間が信じる力ではなく、神が与え給う信仰である。神が認識させるキリストである。占星術の学者たちも神が認識させたので、星の位置によって、幼子のいる場所を特定することができた。彼らの学識や技術によってというよりも、むしろ神の啓示によってこそ幼子のいる場所が明らかになるのである。低くされているがゆえにこそ、啓示されるのである。自らの力に頼り、自らの知識によってキリストを認識しようとしてもできない。人間的知識によっては、聖書を調べても、ベツレヘムしか分からないのだから。ただ啓示によってこそ、我々はキリストを受け入れることができるのだ。ただ啓示によってこそ、「油注がれた者」を認めることができるのだ。ただ啓示によってこそ、キリストは「我らと共なる神」としてご自身を現すのである。聞く耳を与えられている存在こそ、幸いである。見る目を与えられている存在こそ、幸いである。

新しい年、すでに芽生えているものを見出すために、我らは歩み出す。「今や、それは芽生えている」と言い給う神の言に従って歩み出す。星に導かれた学者たちと共に、我らもキリスト「油注がれた者」を見るであろう。あなたの人生の道において、我らの教会の歩みにおいて。見出されるために、すでに生まれているお方を、今日共にいただく。このお方が我らのうちに生きてくださり、我らの目を開き、耳を開き、神の言を信頼させてくださる。「油注がれた者」の体と血に与り、歩みだそう、新しい年を、みことばに従って。
 祈ります。