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2014年1月12日 末竹十大牧師
「義を満たす洗礼」
ルカによる福音書3章13節〜17節
「すべての義を満たすことは、わたしたちに相応しい」とイエスは、洗礼者ヨハネに言う。「すべての義を満たす」と言うのだ。自らが洗礼を受けることを「すべての義を満たすこと」だと言うのである。何故なのか。
「義」とはギリシャ語ではディカイオスュネー、ヘブライ語ではツェダカーである。この言葉は、本来的には神にのみ使われる。神こそが義であり、神こそが義を満たしておられるのである。それなのに、イエスは「すべての義を満たすこと」が自分たちにできると言うのである。それは自分たち、ヨハネとイエスにとって、相応しいことであると。相応しいという言葉は、「適している」という意味である。ぴったりと当てはまることであり、その行為自体がその人自身そのものと合致することである。その人だからそうするはずであると言える事柄である。ということは、イエスとヨハネは「すべての義を満たすこと」に合致しており、そうするはずなのだということである。神のみが義であるということと、ここでイエスが言う「すべての義を満たす」ということはどう一致するのであろうか。
ヨハネが人間であり、イエスが神であるという立場からは、一致はない。それゆえに、ヨハネはイエスを水に沈めることは、自分が行うことではないと言うのだ。それなのに、イエスは「今は赦せ」と言う。ということは、イエスもヨハネのイエス理解を肯定しているのである。イエスとヨハネには違いがある。一致点はない。それなのに、イエスは言う。「すべての義を満たすことは、わたしたちに相応しい」と。イエスは「わたしたちに」と言うのだ。イエスは、ヨハネと自分とを同じ平面で語っている。つまり、イエスはヨハネと同じところで一致しているのである。従って、イエスも人間としてヨハネから水に沈められることを求めているのである。しかし、イエスとヨハネには隔たりがあるということも認めている。それゆえに「今は赦せ」と言うのだ。
神と人とは一致していない。同じではない。あくまで神が人を造ったのである。人は造られた存在として生きるべきなのだ。それなのに、イエスはヨハネから水に沈められようと言う。それが、人間としての「わたしたちに」相応しいのだと。それこそが、「すべての義を満たすことなのだ」と言うのである。
人間が「すべての義を満たす」ということは、神に完全に従うことである。人間が義を満たすことは、神の義の中でこそ満たすことができるのである。神の義が、我々を義とすることができる。それゆえに、人間は神のみを義と認め、神の前にひれ伏すしかないのである。義ではない人間が、神を義と認め、ひれ伏すとき、神は「あなたは義である」とおっしゃるのだ。人間は自らの罪を認めるとき、義である。その罪は、複数形の罪ではなく、単数形の罪である。我々は複数形の罪を悔いるだけでは、再び複数形の個々の罪を犯すのである。わたしの中に、単数の罪が住んでいるからである。この罪が、わたしに複数形の罪を犯させる。そして、わたしは内に住まわせている罪によって、いつまでも個々の罪を犯してしまうのである。根源的な罪が認められなければ、個々の罪を認めたところで、我々は何も変わらないのである。神が義であることを認めることは、人間はどこまで行っても罪を犯さざるを得ないことを認めることである。罪を犯さざるを得ないということは、人間の哀れさである。この哀れな人間が、個々の罪をモグラたたきのように叩いて、抑えたとしても、また新たな罪が飛び出してくる。これが人間の哀れさであり、悲しみである。
我々は、このような自分をどうすることもできず、どこまでも罪を犯してしまうのである。如何に良い人間だと言われていても、根源的な罪は消えない。如何に純粋無垢に思える幼子であろうとも、根源的な罪は消えない。これが我々人間が陥っている罪の支配なのだ。それゆえに、イエスはここで「すべての義を満たすことは、わたしたちに相応しい」と言うのである。人間としてのわたしたちは、「すべての罪を認め、すべての罪の根源を認め、死ななければならない」とイエスは言うのである。それこそがわたしたちに相応しい「義の満たし」である。根源的な罪に死ぬことこそ、根源的な「義」の満たしである。それは、根源的義が現れるための根源的罪の死なのである。
我々のうちに住む罪が死に、我々の内に神の義が与えられ、神の義が働いて、我々を「すべての義を満たす」ようにしてくださる。これが、イエスがおっしゃることである。それゆえに、今日イエスは人間として、根源的罪を水に沈め、新たに神の義に生きるのである。イエスそのものが神の義として生き、神の義として十字架に死ぬのである。我々人間の根源的罪を引き受けて、死ぬのである。イエスが今日、洗礼を受けたがゆえに、我々の根源的単数の罪は水に沈められた。イエスの名によって水に沈められ、イエスと共に死ぬ者は、イエスと共に生きる。神の義として死に、生きたお方と共に生きる。このお方と一つとなって死んで生きるのである。
洗礼者ヨハネは、このイエスの洗礼に関わるすべてを行う人間である。イエスに仕える人間である。イエスは、人間として、人間から水に沈められなければならないのだ。仕える人間によって、水に沈められなければならないのだ。人間に仕えるために、人間に仕えられなければならない。人間のやり方で仕えられなければならない。そうしてこそ、イエスは人間を聖霊と火に沈めることができるのである。
人間と同じ形になること。人間の姿になること。人間に仕えるために、今日ヨハネによって水に沈められること。これこそが、イエスが「すべての義を満たすこと」なのである。人間のうちに義を満たすことなのである。わたしたちとして義を満たすことなのである。このイエスの満たしによってこそ、我々は神の義をいただくことができるのである。神の義が我々の死のうちに働くのである。人間のうちに住む罪が働かなくされるために、イエスは今日水に沈められ、死んで生きるのである。新たに、神の義として。
イエスが水から上がったとき、天が開かれた。神が天を開き、神の義がイエスの上に降り来る。鳩のように降り来る。神の霊こそ、神の義である。神の義をもたらす霊である。霊の降下と共に、天からの声が見える。「見よ、天からの声」とマタイは記している。「見よ、天からの声が言った」と。天からの声が見える。鳩のように見える声。見える神の義の声。「この者は、愛するわたしの息子である。そのうちでわたしが喜んだ息子である。」と。「わたし」と声が見える。見える声でイエスの上に降る「わたし」。神の義は、イエスのうちで喜んだ。イエスのうちで喜びとなって満ちている。イエスのうちに満ちる喜びこそ、神の義である。
我々が如何に罪深くとも、人間を救う喜びのうちにイエスは生きて行く。人間がイエスを拒否しようとも、救う喜びの内に十字架に死ぬ。イエスのうちで神が喜んでいる。イエスは神の喜びを生きている。十字架さえも神の義として喜ぶ。神の義は、すべての否定的な罪を、神の義として新たにするのだ。我々否定的人間を、神の義の喜びで満たすのだ。イエスと共に死んだのだから、もはや我々は神を否定することはない。神の世界を否定することはない。神を拒否することもない。神がわたしを受け入れてくださっているのだから、わたしのうちで神が喜ぶのだから。イエスと一つになった魂を神は喜び給い、神の義で満たし給う。
「今や、それは芽生えている」のだ。我々のうちに芽生えているのだ。イエスと共に死んだ者のうちに芽生えているのだ。神の国に至るまで成長していくあの十字架の義が、あなたのうちに芽生えている。洗礼によってイエスに結ばれた者よ、喜びをもって生きよう、根源的な罪から解放されて。
祈ります。
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