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2014年1月19日 末竹十大牧師


「死地」

マタイにによる福音書4章12節〜17節


「しかし、ヨハネが引き渡されたと聞き、彼はガリラヤへ場所を空けて立ち去った。」とマタイは語る。「退く」と訳されている言葉は、アナコーロー。場所を空けることを意味する言葉に、アナ「新たに」が付けられた言葉である。イエスはどのような場所を空けて、立ち去ったのか。「天使たちが来て、仕えた」場所を空けて、立ち去ったのだ。天の守りの場所を空け、自らは暗闇の場所ガリラヤ、死地であるガリラヤに赴き、居を構えたのだ。それは「光が昇った」出来事、イザヤの言葉が満たされた出来事とマタイは語る。
 イエスは、自らの光り輝く場所を離れ、闇の中に入っていった。闇に光が昇るように、イエスは闇の地に、死地に入っていった。イエスの宣教の始まりは死の地、闇の地、罪に汚された地であった。イエスの公生涯のはじまりは、イエスの終わりを規定している。始まりにおいて、闇の中に入ったイエスは、終わりにおいても闇の中に入ったのだ。イエスの生の必然は、始まりに規定されている。闇に規定されている。死地に規定されている。死地に赴くイエスの生涯。これが救い主の生涯である。
 闇の中に入らなければ、闇を脱け出すことはできない。闇に光が昇らなければ、闇は消え失せない。それゆえに、イエスはあえて、イスラエルにおける闇の地、死地へと入っていくのである。
 死地へ向かう契機は、ヨハネの引き渡し。パラディドミという言葉は、イエスの引き渡しにも使われている。ユダの裏切りもこのパラディドミで表現される。ユダはイエスを引き渡したのだ。ヨハネも引き渡された。イエスはその知らせを受け、ガリラヤに逃げたのではない。退いたのではない。むしろ、闇に入っていく決意をしたのだ。この世の最も深い闇の中に入らなければならない使命を受け取ったイエス。ヨハネの引き渡しの出来事が、イエスを闇へと向かわせた。ヨハネの引き渡しも闇である。その闇に光を昇らせるには、闇に入るしかないと決断したのだ。
 ヨハネの目指したものを実現するときが来たと受け取ったイエス。闇と言われたガリラヤから出て、神の子として光の場所を得たイエスが、再び闇のガリラヤへと入っていったのだ。光輝く場所エルサレムに行くのではなく、誰もが闇だと考えるガリラヤへと入ったのだ。それは、新たに闇に入る出来事であった。ここからイエスは公生涯を始める。宣べ伝え始める。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。ヨハネと同じ言葉で始めるイエス。しかし、ヨハネとは違うのだ。洗礼を宣べ伝えるわけではないのだから。ただ、イエスは光として闇に入る。天の国として闇に入る、人々を神の方へと方向転換させるために。闇の中へと入る。死地へと入る。死に支配されている地に入るのだ。闇に支配されている地に入るのだ。この地がなにゆえに闇に支配され、死に支配された地なのか。希望がないからである。
 闇の中には希望はない。と、誰もが考える。そうであれば、イエスは希望を与えるために闇に入るのか。自らが光として輝くために入るのか。光が昇るために入るのか。そう、光である神が昇るために、イエスは闇に入るのだ。天の国が近づいたのだから。人間が天の国に近づくのではない。天の国の方が近づいたのだ。しかも、闇の中に。死地の中に。その知らせのために、イエスは闇に入る。方向転換することによってこそ、近づく天の国の主体の中に入ることができるのだと。
 脱け出せない闇だと思っていた場所に、光である天の国が近づく。闇から脱け出して、天の国に入るのではない。天の国が闇の中に入り、闇に光を昇らせる。これが天の父のみ心。天の国が入ってくる。天の国が昇る。イエスが昇らせるのではない。神が昇らせる。光として昇らせる。その方向へと向きを変えることがイエスが宣べ伝える悔い改めなのだ。
 我々は、闇に支配されている。闇は縛り付け、どうにも脱け出せないようにしてしまう。それゆえに、何とか脱け出したいと足掻くのが人間なのだ。しかし、足掻いたところで脱け出せるわけではない。ガリラヤに住んでいるのだから。闇に住むしかないのだから。死地に住むしかないのだから。しかし、神は闇に光を昇らせる。死地に命を満たし給う。それゆえに、神はイエスを遣わす。ヨハネが引き渡されたがゆえに、イエスは自らが死地に入らなければならないと赴く。そこで悔い改めを宣べ伝えるために。「天の国が近づいた」のだと宣べ伝えるために。
 イエスの生涯のはじまりが死地であったがゆえに、終わりも死地である。しかし、神が来たり給う死地であり、神が昇り給う死地である。十字架という死地が、光が昇る死地に向きを変える。これが、神が人間の罪を贖うことである。神が贖うことである。人間には贖えない罪を神が贖う。人間には脱け出せない闇を、神が光昇る地に変える。死地を命の地に変える神。この神こそ、我らの神。我らを救い給う神。イエス・キリストの父なる神。イエスはこのお方を宣べ伝えるのだ。
 最も蔑まれた地から始めるイエス。最も低きところから始めるイエス。死の地から始めるイエス。死の地へと赴くイエス。そこにこそ、神の顧みがある。我々が陥った闇こそ、神の光が昇る場所。神の子が死ぬべき場所。光として死ぬべき場所。神の子の死地こそ、ガリラヤであり、十字架である。
 イエスは、生涯死地に入っていく。病に苦しめられ、脱け出せない死の地。罪人と蔑まれ、脱け出せない闇。死の地に入り行き、光を昇らせる。自ら闇に身を沈め、光昇る契機となるイエス。神は、イエスを死地に遣わした。自ら、遣わされた者として、闇に入り行くイエス。このお方こそ、十字架の闇に入り、光として昇るお方。闇を照らす光。苦難の中にこそ、神は来たり給うと、自ら入り行くイエス。共なる神インマヌエルは、闇と共にいます。闇を照らし出す光。海沿いの道に歩み行くイエス。地の限界、海沿いに入り行くイエス。自らの平安を離れ、人間の苦悩の限界に入り行くイエス。座すしかない場所に入り行くイエス。あきらめの地に入る。絶望の地に入る。希望無き世界に入る。光を昇らせるために。神が昇らせるために。イエス自らは闇に沈む。
 闇に始まり闇に終わるイエスは、闇の中、死地にこそ光があると語るのだ。光の中には光はない。闇の中にこそ光がある。死地にこそ光が昇る。十字架は神の命を語る死の地。
 あなたの闇は神の光昇る闇なのだ。神の光照る死地。我々に脱け出せないとしても、神は可能である。神の言葉はすべての可能を開くのだから。イエスが死地に入ったことによって、我々には光が昇るのだ。イエスの十字架によって、光が昇るのだ。それは死地に見えて、命の地。芽生えている命が、十字架のうちにある。死地にある。闇にある。向きを変えられ、目を開かれて、見出そう、死地に命を。あなたの闇はキリストにあって、変えられるのだから。
 祈ります


 
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