2014年1月26日 末竹十大牧師
「網を手放す」
マタイによる福音書4章18節〜25節
「しかし、すぐに網を手放して、彼らは彼に従った。」とマタイは語る。ペトロたちは、すぐにイエスに従った、網を手放して。彼らが従うということは、網を手放すことである。手放したのは網という捕獲する道具である。獲得することを手放したのだ。そうでなければ、「従う」ということは起こり得ないのだ。
網は、魚を捕獲するために投げられる。捕獲した魚を引き寄せ、自らのものとする。網は自らに引き寄せ、獲得する道具である。この道具を手放すということは、彼らは獲得する生から解放されたということである。彼らは従う生に転換したのだ。如何にして、このような転換が起こったのか。イエスが語ることによってである。「わたしの後に来なさい。」とイエスが語ったがゆえに、彼らは、獲得することを手放して、従う生に転換した。このような転換が容易に可能なのかと訝るであろうが、転換は容易なのである。何故なら、一瞬で転換するからである。この一瞬を逃せば、我々のうちにさまざまな思考が行き交い、起こされた思いを打ち消してしまうであろう。一瞬の転換に移行するには、起こされた思いに従うだけである。これほど容易なことはない。
我々はいつも考える。どれが最善であるかを考える。考えるうちに、さまざまな選択肢が見えてきて、選択できなくなる。これも良いが、あれも良さそうだと思えてくる。そして、いつまでも決められないことになるのだ。選択しているならば、決めることはできないのだ。与えられた思いに従うことによってしか決めることはできないのだ。
しかし、与えられた思いが神からのものか、悪魔からのものかをどうやって判別するのだろうか。我々のうちには罪が宿っているのであってみれば、我々のうちに起こる思いは悪である。罪に従った思いしか起こり得ないのではないのか。そうであれば、我々のうちに思いが起こっても、それが正しい選択だとは言えなくなる。我々の思いを検証しても、結局罪の思いでしかない。正しい思いなど起こってくるはずはないのだ。そうすると、我々は自分の思いに従っていては、ただ罪に促され、悪に流されていくだけである。では、どうしたら、正しい思いに導かれるだろうか。イエスの言葉を聞くことからしか、それは起こり得ないのである。イエスが語る言葉に従うこと。これだけが我々が自分の罪の思いから解放される手段である。
しかし、イエスの語る言葉は、どこに聞こえているのだろうか。我々は日常の中で、イエスの語る言葉を聞くことができるのだろうか。今日の日課に出てくる弟子たちは、日常の中でイエスの語る言葉を聞いたのだから。いや、できないのだ。自分自身の日常は罪の中にあるのだから、日常の中ではイエスの言葉を聞くことができない。今日の弟子たちは、日常の中で聞いたのではない。イエスが彼らの日常に入り込んできて、日常を打ち破ったから聞いたのだ。彼らの日常を破壊したから聞いたのだ。網を手放すという非日常的な出来事が、弟子たちの日常に生じたのだ。イエスが彼らの日常に介入したからである。
では、我々にもイエスが現れ、我々の日常を破壊してくれたら、イエスに従うことができるのだろうか。できるであろう。しかし、イエスは我々の日常には現れない。我々の生活の中には現れない。我々の耳にはイエスの言葉は聞こえない。二千年前、弟子たちに聞こえたイエスの言葉は、二千年前に戻らなければ聞くことはできないのだろうか。いや、聞くことはできる。イエスが語り給えば。
イエスは語り給う。聖書の中で語り給う。聞くべき耳を開かれた者に語り給う。礼拝において語り給う。聞くべき者に語り給う。我々が聞くべき耳を開くことはできないのだ。我々が聞くべき者になることはできないのだ。ペトロたちも自分たちからイエスの言葉を聞いたのではない。イエスが語り給うたがゆえに、聞いたのだ。イエスが、彼らの側を通ったがゆえに、聞いたのだ。彼らがイエスの言葉を聞こうとして聞いたのではないのだ。神が、イエスと彼らとを出会わせたがゆえに、聞くことになったのだ。その出会いは、彼らから生じたのではない。神から生じたのだ。神が、イエスに出会わせたのだ。この出会いは、人間からは起こらない。神からしか起こらない。結局、人間は何もなし得ない。ただ、神が日常を破り給うのだ。
我々には神の言葉を聞くための備えはできない。神が語り給うときに、聞くだけである。しかし、神は聞くべき人を如何にして選んでいるのか。我々の日常に如何にして介入するのか。それは誰にも分からない。神が介入するときに介入するのだから。ただし、神の介入が起こったとき、受け入れるか否かは我々のうちに起こった思いに従うか否かである。そして、我々は備えることができない。ただ、手放すだけなのだ。簡単に手放すだけなのだ。
我々は、如何にしても手放すことはできない。神が手放させることがない限り、手放すことはない。それは、我々がただそのようにされるというに過ぎない。それだけなのだ。それゆえに、愚かに思える。何も考えず、熟慮せず、ただ従うのだから、愚かに思える。確かに、我々は愚かなのだ。イエスに従う者は愚かなのだ。弟子たちも愚かなのだ。この世の価値、この世の思考から言えば、愚かなのだ。この愚かは、この世の価値とこの世の思考からは生じるはずのないことである。そのように我々も愚かにもイエスに従ったのではないのか。あなたは、熟慮してイエスに従ったのか。あなたは、この世とイエスを比較して、イエスに従ったのか。あなたは、この世の思考で考えて、イエスに従ったのか。違うのだ。この世の価値、この世の思考を捨てたのだ。
この世の価値、この世の思考は、獲得することを良しとするのだ。自らがすべてを掌握することを良しとするのだ。アダムとエヴァも、それゆえに罪に陥ったのである。罪の現実は、人間自らがすべてを掌握し、すべてを自分にとって良きようにしようとするところに現れているのだ。獲得する思想は、我々のうちに住む罪のなせる業である。そのようなところから、解放されるには愚かになることである。この世の思考から愚かと思われることを生きることである。イエスの言葉を聞くことは愚かになることである。しかし、真実に人間として生きることである。我々は、この世の思想によって賢くなりすぎている。愚かになることができないほどに、獲得することに毒されている。利益追求に、効率主義に、成長主義に毒されている。それらを手放すには、イエスの言葉を聞くことである。聞くように導かれている者は、愚か者である。しかし、真実に生きることを求める者である。人間であることを生きたいと求める者である。人間であるためには、この世の思想もこの世の価値も必要では無い。ただ、人間である事実を生きるだけなのだ。そのとき、我々は網を手放している。獲得する生を手放している。そして、人間として生きようと歩き始める。イエスの後についていく。イエスこそ、人間として生きていると知っているからである。見返りを求めず、イエスは与える。ただ癒やす。ただ解放する。ただ、教える。それだけなのだ。イエスは与えることで、我々を解放する。では、与えられる我々はやはり獲得するのではないのか。いや、我々が求めもしなかったものをイエスが与えるだけである。イエスご自身を与えるだけである。十字架の死を与えるだけである。そして、人間であることを与えるだけである。
我々は人間であることを求めなかった。むしろ、人間である愚かさを捨て、人間を越える賢さを、他者を捨てる賢さを求めたのだ。その結果が、十字架であった。イエスを十字架に架けることであった。上を求めて、下を失った。これがアダムとエヴァの罪であり、我々の罪である。イエスは、下を生きた。上を捨てた。獲得を捨てた。網を捨てた。手放された網を後に残して、イエスはただ生きた。人間として生きた。これこそが、今日イエスが招いている生である。「あなたを人間の漁師にする」と言われる生である。人間として手放した網を再び手にすることがないように。ただいただく生を生きよう。あなたはイエスの語りを聞いたのだから。「我に従え」と語るイエスを見たのだから。
祈ります。
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