2014年2月9日 末竹十大牧師
「然りは然り」
マタイによる福音書5章21節〜37節
「あなたがたの義が、律法学者たちとファリサイ派の人たちよりも溢れていなければ、あなたがたは決して天の国に入らない。」とイエスは言い給うた。その言葉の後、今日の言葉を語り給うのである。「溢れている義」とは如何なるものであるかを語り給う。兄弟に馬鹿と言い、愚か者と言う者は、天の国に入らず、火の地獄に投げられる。女を欲することに向かって見る者は、心のうちで彼女を姦淫していると言う。それゆえに、右の目がそのように見て、あなたを躓かせるならば、それを取り出して、投げなさいと言う。離縁についても、自分の思いに従って離縁するならば、姦淫を犯させ、自らも姦淫を犯すのだと言う。誓いも自分のためになしてはならないと言う。我々の言うべき言葉は、「然りは然り、否は否」であると言い給う。これ以上に溢れることは、悪からのものであるとまで言うのだ。
これらの言葉に従って生きることが、我々にできるのであろうかと、我々は考える。しかし、できるか否かを考えるとき、我々はイエスが言い給う言葉を自分の地平に引き下ろしてしまっているのだ。イエスの言葉はイエスの言葉である。イエスの言葉は然りであり、ただ聞くべき言葉である。然りとしか言い得ない言葉である。これを、わたしにできるか否かと問うことは、イエスの言葉を蔑ろにすることである。イエスは、我々ができるか否かにかかわらず、語り給う。我々が聞かなければならない言葉であるがゆえに、語り給う。語られた言葉を我々が自分の恣意によって、できるか否かを判断することを望んで、語られているわけではないのだ。
我々が罪人であり、神の意志に従わないということを忘れて、そのような罪人が従うことができるか否かを問うことは、罪人の悪しき思いに従った思考である。罪人であるのだから、従わないのだ。従わないための言い訳を見つけ出そうとして問う。これは人間には不可能なのではないのかと。そのとき、イエスの言葉は実現不可能な理想として、投げ捨てられてしまうのである。投げ捨てられたイエスの言葉は、我々のもとには留まらず、終わりの日に我々を裁く。マタイによる福音書7章26節でイエスが言うとおり、「わたしのこれらの言葉を聞き、それを行わないすべての者は、愚かな男と同じようになるであろう。そのような人は、砂の上に彼の家を建てたのである。」ということになるのだ。砂のように、脆く、流される人間の思いの上に家を建てても、確かではない。我々は、自分という脆い砂の上に建てようとするところから脱け出すことができない。罪人が罪人であるということを弁えていないならば、我々はどこまでも自分という砂の上に家を建て続けるであろう。そして、流されてしまうのである。このために、イエスは言い給うのである。「あなたがたの義が溢れていないならば」と。
我々の義は神である。神こそが義である。我々人間は不義である。この弁えこそが我々の義を認めることである。このわたしは義しくないことを認めることである。神だけが義しいのだ。このわたしは義しくない。これほど明白な事実があるにも関わらず、我々はイエスの言葉を実行できるか否かをなお問うのであろうか。あなたにはできないのだ。あなたは罪人なのだから、神の意志に従うことはないのだ。罪人であるあなたから何の善いものが溢れ出るであろうか。あなたのうちから溢れ出るものは、悪である。悪しか溢れ出させないのが人間なのだ。この人間こそ、わたしであり、あなたなのだ。これを忘れては、我々はイエスの言葉を聞くことはできないであろう。
さらには、実行できなければしなくても良いのだと自分に言い聞かせることにもなる。イエスが十字架において赦してくださったのだから、できなくても良いのだと、罪人のままに留まる。イエスは、あなたが罪人に留まるために、十字架に架けられたのか。あなたが罪人であり続けるために、十字架を負われたのか。十字架は、罪人を野放しにするものなのか。罪人を捕らえ、ご自身と共に死に至らしめるものではないのか。そうでなければ、使徒パウロが批判する如く、「恵みが富ませるために、わたしたちは罪に踏み留まるのか。」ということになるのである。罪を犯せば犯すだけ、十字架の赦しの恵みが、わたしを富ませ、わたしの罪によってたくさんの恵みがわたしを富ませると考えることになるのだ。
キリストが十字架に死んでくださったのは、わたしを罪に踏み留まらせるためであったと。キリストの十字架があるのだから、我々は如何に罪を犯しても大丈夫なのだ。神の意志に従い得なくても大丈夫なのだ。これで万事上手く行くのだ。キリストが十字架において赦し続けてくださっているのだから、罪の世界は存続し、我々は安心して罪の中に留まることができるのだ。何と素晴らしい福音であろうか。努力など必要ないのだ。ただ、十字架がわたしを赦してくださると信じれば、それであなたは罪人のまま留まることができるのだから。「さあ、どうぞ、どうぞ、お入りください、罪人の国へ。」と、悪魔は誘う。何と巧みな悪であろう。何と邪悪な誘いであろう。あなたはできないのだから、それで良いのだ。赦されているのだ。こう語る悪魔は、できると考える人と共に、できないと考える人も罪人の国へと迎え入れようとする。こうして、我々は罪人の国の住人として生きて行くことになるのだ。これでは、キリストは罪に仕えるものということになる。罪人を罪の中に留めるキリストになってしまう。キリストが十字架の上で苦しみを引き受けたのは、そのためなのか。あの十字架の苦しみが、我々を造り替えないのであれば、キリストは虚しく死んだのである。何の力にもなり得ず、何の義しきことも起こらず、罪の世界が広がるだけのために、キリストは死んだのだろうか。我々はそれを福音と呼ぶのだろうか。
キリストが語られた言葉は、この罪人の思いに従っては理解されない。受け入れられない。キリストの霊が与えられなければ、我々はキリストの言葉を「然り」と聞くことができないのだ。「然りは然り」なのに、然りを否とし、否を然りとする。神の義である十字架を悪とし、悪である我々を義とするのである。十字架に付けた人々がいなければ、キリストは我々の罪の贖いとなることはできなかったのだと言い、罪が溢れているがゆえに、キリストは贖いとなることができたのだと主張することになる。それが神の義なのか。我々に溢れる神の義なのか。
神の義が、神が義しく、我々人間は不義であることを教えるのであれば、我々は罪人であることを認めなければならない。そのような罪人を救うということは、造り替えるということである。神に従わない者が、神に従う者に変えられるということである。そうでなければ、神は罪人を罪人のまま野放しにしているだけの神である。何もできない神である。然りを然りとしない神である。悪を然りとする神である。義しいことをしなくて良いと言う神である。そのような神が神であろうか。それは神ではなく、悪魔である。
それゆえに、イエスは我々に突きつける。「あなたは罪深い」と突きつける。「あなたは地獄に投げられる」と突きつける。「あなたは姦淫している」と突きつける。「あなたは自らを神としている」と突きつける。心の底まで罪に染まっている人間であることを我々に受け入れさせるのだ。「砂のような流される自分の上に家を建ててどうなるのか。わたしの言葉の上に家を建てよ。そうしてこそ、あなたはわたしの言葉を行うであろう。わたしの言葉を行うことを求めるであろう。行うことを求めて、わたしを求めるであろう。あなたはどこまで行っても罪人なのだから、あなたからは何の善きものも溢れないのだから」と。我々はイエスの言葉を聞くのだ。キリストの言葉を「然り」として受け入れるのだ。そのとき、キリストの言葉はあなたのうちであなたを造り替える言葉として働き給う。キリストの言葉と一体となるとき、必然的にあなたはキリストの言葉を行うのだ。あなたのうちのキリストから溢れ出すのだ、神の義が。これこそが然りである。然りは然りなのだ。然りであるキリストを受け入れ、キリストに生きていただこう。あなたはキリストの言葉を聞いているのだから。
祈ります。
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