2014年2月16日 末竹十大牧師
「天の父の終極性」
マタイによる福音書5章38節〜48節
「あなたがたは終極的な者たちであれ、天のあなたがたの父が終極的な者であるように。」とイエスは言う。「完全」と訳される言葉テレイオスは、テロス「終わり」という言葉と同根である。「完全」とは終極に達していることである。すべてのことを成し遂げて、完成していることがテレイオスである。天のあなたがたの父、神がすべてを成し遂げているということ、終極に達しているということはどういうことであろうか。
神は人間のように時間性に縛られてはいない。それゆえに、終極に達するなどということは神にはあり得ないのではないのか。始めも終わりも神には同時である。神は初めであり終わりである。神は永遠である。人間のような時間性に縛られた終極ではないのだ。時間性に縛られない終極というものがあるのか。いや、時間性に縛られていないがゆえに、常に終極である。人間にとっては、時間的に終極に達するとしても、神は常に終極に達しているのである。そのような意味で、神は完全である。
時が経てば、終極に達するということではない。人間的にも終極に達するには、ただ漫然と時を過ごしていても達するわけではない。過ごした時を自らのうちに定着させなければならない。ただ時が過ぎただけで、誰でも終極に達するわけではないのだ。同じ時を過ごしても、そこから受け取るべきものを受け取っていなければ、まったく違うところに立っているのだ。そのような人間の違いがあるにも関わらず、終極に達した者としてあるようにとイエスは勧める。そのようなことがすべての人間に可能なのだろうか。
すべての人間が同じ人間であるとしても、人間としての内実は違う。同じ経験をしても、至るところは違ってしまうものである。愚か者は愚かにしか受け取らない。賢い者は賢く受け取る。それでもなお、どちらが義しく神の終極的な子として生きているかは分からない。愚かであることの方が、賢くあることよりも終極に至っていることもある。その反対もある。そのような相異が生じるのは、終極性を固定的に捉えるか、生成する状態として捉えるかによっても違ってくるであろう。
敵は敵であって、生涯変わりようがないと我々は考えるものである。それでもなお、敵を変えようとして、敵対することも起こる。敵は変わり得るのか。変わり得ることを求めるべきなのか。変わり得ないとあきらめるべきなのか。変わり得ようと、変わり得まいと、変わらなく敵は敵である。この現実から始めることである。
敵は敵である。わたしが敵を変えることはできないのだ。相手の考え方を変えることもできないのだ。わたしが変えうるならば、わたしは神になるであろう。そうである。我々は敵を変えうると思い、敵を駆逐できると思い、神になってしまうのである。そのような神になる我々に、イエスは言い給うのだ。終極的なものであれと。それは、終わりから、終極からすべてを眺めよということである。天の父から眺めよということである。すべてを包含する神から眺めよということである。
天の父は、悪人と善人の上に、彼の太陽を昇らせるのだ。天の父は、義人と不義なる者の上に雨を降らすのだ。天の父にとっては、悪人であろうと太陽は必要であり、善人だから太陽が不要わけでもない。義人だから、恵みの雨を降らせるわけではないし、不義なる者だから干からびるに任せるわけでもない。神は、すべての人間を自らの子として恵み深く生かしているのだ。それこそが終極性である。天の父の終極性は、すべてを剥ぎ取った存在を認めるのだ。如何に人間が数限りない装飾物で身を飾っていても、すべてを剥ぎ取ってご覧になるのだ。それゆえに、天の父にとっては、すべての者は子なのである。そこに区別はないのだ。区別するのは人間である。
あなたにとって悪人である者を神は生かしている。あなたから見て、神の前で不義だと思える存在も神は生かしている。必要なものを与え、そのいのちを守っている。父は、これで終わりだと区別することはないのだ。人間の時間において、終わりだと思われても、神の永遠の中では終わりではない。常に、人は悔い改めることが可能な存在なのである。固定されているわけではないのだ。今はそうだというだけなのだ。しかし、今が終わりでもある。
我々はいつも他者を決めつけてしまう。これで終わりだと決めつけてしまう。そして、その人間は変わり得ないと考えてしまう。しかし、神のいのちが与えられている以上、変わり得る存在なのだ、如何なる人間も生きている限り、生成しているのだから。それでもなお、我々の時間的な制約の中で変わるか否かは分からない。ただ、神との関係の中でのみ、生成されつつある存在なのだから。そして、神が造り替え給うのだから。
我々人間が、他者なる人間を造り替えることはできない。敵を敵でなくすることもできない。敵であることは、わたしにとってであり、敵の仲間にとっては、兄弟姉妹であろう。そのような我々人間の選別は、偏っているのだ。それゆえに、我々は敵を敵として固定してしまう。それゆえに、イエスは言う。「敵を愛せ」と。敵は敵である。仲良しにはならないであろう。「しかし、わたしは言う。あなたがたの敵を愛せ。」と。仲良しになれ、仲間になれ、味方だと思えとは言わないのだ。ただ「敵を愛せ」と言うのだ。それは、天の父の在り方と同じようにということである。必要なものは必要な人に与えよ。その人が生きることができるように助けよ。敵であろうと、助けよということである。「敵を愛せ」とのイエスの命令は、敵を生かせということである。敵の必要なものを与えよということである。敵が生きることができるように助けよということである。
その人と仲良くなるということは、別の敵を作ることであり、仲良くなることにすでに区別が生じているのである。そのような区別を越えて、「敵を愛せ」と言うのだ。そうであれば、我々は如何なる人間であろうともその人が生きることができるように助けることが求められていると考えるべきである。そのように生きるとき、我々は天の父の終極性を生きていることになるのだ。常に、生成している状態として、他者を見ること。生成していることを助けること。これだけが「愛する」ことである。天の父が為し給うことである。
天の父は、我々が敵対していたときにも、背いていたときにも、いのちに必要なものは与えてくださったではないか。まして、十字架はすべての人間を愛する者として造る神の御業ではないか。あなたの敵も神が造り給うた。あなたの敵も神が生かし給うた。あなたの敵も神が救い給うた。十字架において、死んでくださったお方は、すべての人間のために死んでくださった。すべての人間が罪人であることから変わり得るか否かが問題ではなかった。変わり得ないとしても、キリストは十字架で死に給うた。変わり得ないとしても、十字架の救いは終極に達している。すべてを終えている。そのような神の御業を信じるのであれば、我々は敵を愛するのだ。敵のために祈るのだ。その人が救いを受け取るようにと祈るのだ。天の父がその人の救いを願っているのだから。
我々は、敵を敵としてもなお、敵を愛するようにとイエスに勧められている。それは、結果的に自らに返ってくる神の視線である。いや、神の視線から自らと他者とを見ることである。神を仰がない者も、神の子として生きて行くことができるようにと祈るのだ。そうしてこそ、天の父の終極性によって、生きる者となる。天の父が終極に達し、終極を生きているように、我々も終極からすべてを眺めるのである。このような視点が与えられるようにと、イエスは今日、語り給う。罪人の目が開かれ、天の父の目差しで世界を見ることができるようにと。
キリストの体と血に与る聖餐において、我々は神の子としての終極性を生きる者とされるのだ。キリストと同じ形が我々のうちに形づくられるのだ。罪人であるわたしが天の父の終極性に与る。造り替え給えと祈りつつ、受け取ろう、キリストの体と血を。
祈ります。
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