2014年2月23日 末竹十大牧師
「神の義」
マタイによる福音書6章24節〜34節
「第一に、神の支配と彼の義を探しなさい。そして、これらすべてものはあなたがたに付け加えられるだろう。」とイエスは言う。「第一のものを第一とする」ことが「神の支配と彼の義を探す」ということである。神の支配が義しいものでなければ、すべては付け加えられるだろうとは言えないのだ。神の支配は義しいのだ。神は義しく支配しておられる。それゆえに、我々は神の支配を信頼して生きるべきなのだ。第一のものを第一とすることのうちに、すべては始まっているからである。第一のものにすべては内包されているのである。
第一のものとは、神が神であり、神が義しいお方であることである。神の支配は義しい国なのだ。義の国なのだ。この世の国は不義の国である。何故なら、この世の国は自らの国を守るために、個人を犠牲にするからである。そして、個人がこの世の国のために何ができるかを考えよとの勧めも語られる。神の国では、個人が神の国に何かができる、貢献できるということはあり得ないのだ。ただ、神がご自身の義において支配しておられるだけである。ただ、我々人間が神の義を信頼して、支配を受け入れているだけである。しかし、この世の国は、自分たちの国のためにあなたは何ができるかを問う。お国のために死ねるかと問う。神の国は反対である。あなたがたのために神が死に給うのだ。それが神の支配の義しさ、神の義である。
この世の国の価値観は、国のために犠牲を献げる人間を求める。神の国は、神ご自身が民のために犠牲となる。この世の国は、国を守るために、民が死ぬ。神の国は民を守るために、神が死ぬ。全く反対なのだ。神の義とは、神が民を愛し、民を守り、必要なものを与え、はぐくみ、ご自分のものとして喜ぶことである。神の義は、民のために義しいお方として生きてくださる神である。十字架が神の義であるということは、このような意味である。
では、イエスが「第一に、神の支配と彼の義を探せ」と言われたのはどういうことであろうか。探さなければ見つからないのだろうか。探さなければならないほど、小さなものなのだろうか。そうなのである。神の支配は、この世の小さな存在にも大きな存在にも及んでいる。しかし、小さな存在において、神の支配と神の義を探し出すことができるならば、この世のすべてに及んでいる神の支配と神の義を認めることができるであろう。もし、大きなところに、偉大なところに、神の支配と神の義を見出すならば、小さなところに同じように及んでいるかどうかは分からないであろう。小さなところに見出される神の支配と神の義は、この世のすべてに及んでいるのだと認められる。それゆえに、イエスは空の鳥、野の花を見なさいとおっしゃるのだ。
彼らが神のために何かをしているわけではない。しかし、彼らは神に養われている。彼らが自分のためにも何かしているわけではない。それでも、彼らは養われている。神は、どうして彼らに何も求めないだろうか。神の国のために、あなたがたができることは何かと言わないのだろうか。当たり前である。神が彼らを愛しているからである。彼らを造ったからである。造った存在を愛する神の自己贈与こそが、神の義である。神は義において、自己贈与し給うのだ。それが十字架である。
神は人間から何かをしてもらう必要はない。神は完全である。神は御自分のためには何も必要とされない。そして、被造物のためにご自身を与え給う。これこそが神の義である。与えられた存在が、自らは何もできなかったし、なさなかったにも関わらず、神は与え給うたと感謝するとき、神の義は認められている。神を義しいお方と認める存在は、神の義を受け取っている。そして、神の義の中で生きている。自分自身は何もできず、何の力もないにも関わらず、神が造り、愛し給うがゆえに、すべてを与え給うと信頼しているのである。
もちろん、鳥や花が神を信頼しているかどうかは分からない。ただ、あるようにあるだけかも知れない。本質的には、それで良いのだ。あるようにある。これこそが、神の支配と神の義の中に生きることなのだ。我々人間は、あるようにあることでは満足せず、もっともっとと求めてしまうのだ。そして、神の支配を神の義しさと認めなくなってしまう。他の人にはあんなに良いものをくださっているのに、わたしにはこれだけですかと神に文句を言う。他の人があれだけの地位を与えられているのに、わたしがこんなに低いのは何故と問う。わたしの能力が足りないのは、不公平だと不平を言う。神の義を認められない人間は、このようになってしまうのだ。そして、結局、神の支配から離れてしまう。自分で出てしまう。こうして、我々は野の花よりも小さくなってしまうのである。
このような人間を神が悲しまずにいられようか。神が苦しまずにいられようか。苦しみ、悲しむ神がご自身を与える。十字架でご自身を与える。そこまでして、我々が神の義を認めることを求められる。神は義しいのだ。神が義しさのうちに、すべてをなしておられるのだ。見返りを求めず、ただ我々に与え給うのだ。すでに与えられているではないか。第一のお方がすべてを与えてくださっているではないか。そのいのちまでも与えてくださっているではないか。それでもなお不平を言うのが人間である。どちらが不義であろう。神か、人間か。
神の義を認めず、神の支配を信頼せず、自分の思い通りにならないと不平を言う。着るもの、食べるものの心配ばかりをしている。自分のいのち、自分の魂の心配をせよ。いのちは食べ物よりもまさっている。魂は食べ物ではどうにもならない。体は衣服よりもまさっている。神が造り給うた体なのだ。衣服で体を造ることはできないのだ。我々が、何をしても、神が造り、神が支配しておられない限り、わたしのいのち、わたしの魂は、生きていないのだ。神が義であるがゆえに、神がわたしに必要なものはすべて与え給うのだ。この信頼の上に、我々が生きるなら、神の国、神の義はすでにあることを見出すであろう。小さき鳥、小さき花が、神の義の衣で覆われているのだ。探せば、誰にでも見出せる。それが神の義である。
大いなるところに探す必要はない。高きところに探す必要はない。小さく、低きところに、見えているではないか。あそこにもここにも、見えているではないか。あなたのいのちのうちにも、あなたの手元にも、あなたの指先にも、神の義は見えているではないか。
今日を生きることを十分生きれば良いのだ。明日までも思いを伸ばすな。今日与えられているいのちは十分ないのちなのだ。長きときを生きるから幸いなのではない。一日を十分に生きるならば、幸いなのだ。野の花の如く、いかに短いいのちであろうと、幸いなのだ。それを十分と生きている姿こそ、神の義をまとっている姿である。神の義に自らを委ねている姿である。我々がどれほど労したところで、いのちを伸ばすことはできないし、体を伸ばすこともできない。神が造られたいのちと体はあなたに十分なのだ。使徒パウロが聞いたキリストの言葉の通り、「わたしの恵みはあなたに十分である」ということなのだ。神が与え給うたものを不十分だと不平を言うことによって、自ら不十分になっているだけなのだ。
キリストは、十字架の上で、およそ30才の生涯を終えた。これで十分なのだと生きた。十字架の上に死ぬことが、わたしのいのちなのだと生きた。キリストに従う者は、すでに見出しているはずである、神の支配を神の義を。あなたを十分に生かしている神を知っているではないか。キリストを生かし給うたように、あなたをも神は生かし給う。日々を感謝し、十分に生きて行こう。
「第一に、神の支配と彼の義を探しなさい。」と語り給うキリストが、あなたのために、十字架の上で今日を生きた。十分に生きたお方のいのちが、あなたのうちに生きている。キリストのお心があなたのうちに生きている。キリストの言葉が生きている、あなたが神を喜び、神に向かって生きて行くようにと。あなたは神のもの、神の愛する被造物なのだ。
祈ります。
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