2014年3月2日 末竹十大牧師
「彼のことを聞け」
マタイによる福音書17章1節〜9節
「しかし、ペトロは答えて、イエスに言った。主よ、美しいことです、わたしたちがここにいるのは。」と記されている。新共同訳では「口をはさんで」と訳されているが、「答えて」である。イエスはペトロに問うていないし、何も語っていない。ただ、ペトロたち三人を高い山に連れて行ったのだ。そして、イエスの外観が変化し、モーセとエリヤが彼らに見られた、イエスと共に語り合っているのが。ペトロはそれを見ただけなのだ。それなのに、どうして「答えて」という言葉が記されなければならないのか。ペトロは、その光景から何かを聞いたのか。問いかけられていると思ったのか。恐らくそうである。それゆえに、彼は何か答えなければならないと思ったのだ。「あなたが意志するなら、わたしはここに、三つの幕屋を造るでしょう。」と答えなければと思ったのだ。彼は、イエスの外観の変容とモーセとエリヤの現れから、言葉を聞いたのだ。その言葉は、如何なる言葉だったのだろうか。「お前が従って来たイエスは、モーセとエリヤに匹敵する人間なのだ。お前は、この出来事に対して、何をするのか。」という問いだったのだろうか。それゆえに、彼は「答えて、イエスに言った」のだろうか。ペトロが聞いた言葉は記されていない。しかし、ペトロの答えから類推するに、そうであろう。彼は何かをしなければならないと思ったのだ。しかし、「もし、あなたが意志するなら」と条件を付けている。それは、「この答えで良いでしょうか。」というイエスへの問いであろう。
それに対して、イエスは何も答えていない。ただ、光を発する雲が彼らを被ったと記されている。この光を発する雲は神の臨在を表すものである。それゆえに、雲からの声が言ったのだ。「この者は、わたしの息子、愛する者。あなたがたは彼のことを聞け。」と。神が「この者は、わたしの息子」と言った。神が「愛する者」と言った。その彼のことを、あなたがたは聞けと言ったのだ。「聞く」という言葉の目的語としては、対格と属格が使われるが、ここでは属格である。対格は「何々を」という直接目的語であり、属格は「何々の」という所属を表す格である。従って、「彼に属することを聞け」と神は言われたのだ。「これに聞け」という日本語が表しているのは、「彼に属することを聞け」ということである。すなわち、イエスのことを聞くということである。イエスのこととはいったい何か。
ペトロが自ら問われていると感じたのは、モーセとエリヤと語り合うイエスという状景であった。それゆえに、「三つの幕屋を造るでしょう」と答えたのだ。しかし、雲からの声は言う。「彼に属することを聞け」と。この状景も彼に属することではないのか。イエスはモーセとエリヤに匹敵する存在であるという言葉が、語られているのではないのか。ペトロはそう聞いたのだ。しかし、雲からの声は言うのだ。「彼に属することを聞け」と。ペトロが聞いたと思った言葉は、この状景が語っていることではないという意味である。この状景は「彼に属すること」として聞かれなければならないということである。イエスは確かにモーセとエリヤに匹敵するどころか、越えている存在である。それゆえに、「光」のようである。光を発する存在なのである。しかし、その光発するイエスが、モーセとエリヤと共に雲で被われる。ここまでの状景が語っていることは、イエスの栄光は隠されているということである。それゆえに、「彼に属することを聞け」と言われるのだ。
「彼に属すること」とは、十字架である。十字架のうちに隠されているイエスの栄光である。ペトロたちが見た光り輝く栄光の姿ではなく、雲に被われる栄光である。見えなくなる栄光である。ただ、イエスだけがいる栄光である。十字架こそ、隠された栄光である。それゆえに、山を下りるとき、イエスは言うのだ。エリヤは来たが、人々は判別しなかったと。来たのに、来ていないかのように認めなかったと。また、山に登る前には、イエスは、ご自分の十字架と復活を弟子たちに語っていたのだ。それが「彼に属すること」なのだと。しかし、ペトロは、隠された栄光ではなく、目に見える栄光を留めるべきなのだと思った、「三つの幕屋を造るでしょう」と。ここにペトロに代表される弟子たちの曇った目があるのだ。外観が変わるという変容に目を奪われたペトロたち。今は、十字架を受け入れることはできない。すべてが失われ、隠れているイエスに属することを受け入れなければならない。隠され、失われるという否定の道を通らなければ、ペトロたちには受け入れられないのだ。変えようのない現実が現れなければ受け入れられないのだ。受け入れざるを得ない現実が現れなければならない。隠された栄光が現れなければならない。
この現れが語る神の現実を聞かなければならないのだ。「彼に属することを聞け」、「彼のことを聞け」と雲からの声が言うのは、そういうことである。イエスが口をもって教える言葉を聞いていれば良いのではない。イエスの言葉を理解するには、十字架を「イエスのこと」として聞かなければならないのだ。「彼のことを聞く」ことがなければ、イエスの言葉も理解されない。隠された栄光を聞くことがなければ、イエスの言葉を理解することはできないのだ。
我々も、洗礼を受けた後に、やっと真実のイエスの言葉を聞く者とされるのだ。洗礼によって、我々は隠されていることを聞く耳を開かれるのだ。それまでは、この世の知恵に従った、この世の価値に従った言葉としてしか聞いていないのだ。隠されている言葉を聞いていないのだ。イエスのことを聞いていないのだ。イエスが語った口の言葉としてしか聞いていないのだ。それでは、イエスのことは理解されない。洗礼によって、開かれるのは、すでにあったが隠されていた言葉である。すでにあっても、我々の被いが取り除かれなければ、見ることも聞くこともできないのだ。我々は、それほどに、目に見える栄光しか求めていない。美しいことしか求めていない。苦しいことは求めない。当たり前ではあるが、苦しいことから逃げたいのだ。そして、苦難の影に隠されている栄光を見ることができないのだ。この世に否定される神の現実は、否定の中に隠されている。苦難の中に隠されている。十字架の中に隠されている。彼のことを聞く者は、隠されたことを聞くのだ。否定が、苦難が、十字架が語っている隠された栄光が開かれる。それは、すでにあるが、見えないだけ。すでに語られているが、聞こえないだけ。被いが取り除かれなければならない。この被いは、我々の罪が被っている被いである。我々の罪が働かなくされるとき、被いは取り除かれ、我々は隠された神の現実を見るであろう。そのためには、否定を通り、苦難を引き受け、十字架に従わなければならないのだ。イエスのこと、イエスに属することを聞くためには、イエスに従って、自分の十字架を取らなければならないのだ。自らの罪を認め、自らの罪が被っている神の現実が開かれなければならないのだ。
神の現実はそこにあるのに、我々の罪が被い、隠しているのだ。見ないようにと隠しているのだ。我々が、十字架をイエスの死としか見ないがゆえに、我々には開かれない。十字架は、隠された栄光である。神の輝きである。神の光である。十字架に照らされて、我々が自らの罪を認めるとき、神の光を受け入れているのだ。否定の中で、苦難の中で、十字架が開く現実を受け入れているのだ。
この四旬節を生きる我々は、神の隠された現実が開かれることを求めて、歩み続ける。十字架が語りかける言葉を聞きながら、歩み続ける。イエスのことを聞きながら、歩み続ける。その果てに、我々は解放されるのだ。自ら覆い隠している現実から、解放されるのだ。自らの罪を認めるのだ。わたしのためにキリストが死に給うた十字架こそ、神の栄光であると認めるのだ。この四旬節を十字架に向かって歩み行こう。キリストの体と血に与り、歩む力をいただこう。あなたのために、ご自身を献げられた主イエス・キリストが、あなたのうちに「彼に属すること」を開いてくださるように。
祈ります。
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