2014年3月5日 末竹十大牧師 聖灰水曜日礼拝
「神が返す」
マタイによる福音書6章1節〜6節、16節〜21節
「あなたがたは注意しなさい、あなたがたの義を人間たちの前で行わないように、彼らに見られることに向けて。」とイエスは言い、「もし、本当に、しないなら、天にあるあなたがたの父の傍で、報いをあなたがたは持っていない」と言われる。しかし、ラッパを吹く人は、「彼らは報いを受け取っている」と言われる。さらに、「隠れたところで見ているあなたがたの父があなたに返すであろう。」とも言う。見られる義を行う人は、隠れたところで見ている父を知らない。そのお方が「返すであろう」ことを信頼していない。それゆえに、今「報いを受け取っている」と言われるのである。この「報い」とは何か。
見られるために行う義とは、見られ、認められ、称賛されることを求めている義である。これは、神の義ではない。神は、隠れたところで見ているお方である。隠れたところは、人間の目から隠れたところである。神ご自身は隠れてはいない。人間の目が認めないだけである。認められることが、人間の目に認められることであるがゆえに、我々は人間の前で行うのである。そこにおいて報いを得ようと行うのである。自らの業を、自らの義を、現在の報いを得る手段にしてしまうのだ。
しかし、将来的に神が返すものとは報いなのではないのか。我々が誰かに施しをしたことのお返しが神から与えられるのではないのか。ここでは「返す」と言われているだけで、「報い」という言葉は使われてはいない。「報い」とは、人間の目に認められるという「報い」である。人間から称賛されるという「報い」である。「もし、本当に、しないなら、報いをあなたがたは持っていない、天にあるあなたがたの父の傍で」と言われていた「報い」も、現在形の報いである。「返すであろう」は未来形である。「報い」は、見えるところで施しをしないならば、今現在持っていないのである。しかし、見えるところで施しをするならば、今現在「報い」を持っているのである。この現在と将来の対比がここで語られているのである。現在においては「報い」と言われ、将来においては「返す」と言われる。これはどちらも「報い」ではないかと思える。しかし、そうではないのだ。現在受け取っているのは「報い」という名詞であり、将来はただ「父が返す」という動詞なのである。
神からは、施しのお返しがあるだろうと言われているのだろうか。この「お返し」とはいったい何か。しかし、祈りについても、同じように「父が返すであろう」と言われているのである。施しのお返しならば「報い」のようなものだが、祈りのお返しとは何か。祈りが叶えられるということだろうか。それを「神が返す」と言うだろうか。
「隠れたところで見ているあなたの父」と言われているが、神は隠れていないはずだから、隠れたところで見ておられるとは言われないであろう。それゆえに、新共同訳は「隠れたことを見ておられるあなたの父」と訳している。しかし、この言葉は「隠れたところで見ているあなたの父」である。隠れたところにおいて見ているということは、父は隠れているのである。隠れたところにおいて行われる業、隠れたところにおいて祈られる祈りは、隠れたところで見ているお方しか見ることはないということである。そして、将来返すと言われているのだから、そのお方は今現在、報いを与えないということである。見た時点で報いを与えないということである。それゆえに、報いを得たと誰も感じられない。そうであれば、現在の報いを与えられない業が、「人間に見られることに向けて、行わない義」ということになる。祈りも、「人間に見られることに向けて、行わない義」ということである。それは、現在の報いを受け取らないことである。現在の報いを持たないことである。
そうすると、現在の報いと将来のお返しが対比されているのである。現在、あなたが「報い」として受け取っているものは、「神が返す」という出来事ではないのだ。あなたが受け取る「報い」なのだから、主語は「あなた」である。「神が返す」は、神が主語である。現在は、あなたが主語として受け取り、持つ。将来は、神が主語として返す。この違いは大きいのだ。それは、我々が主語か、神が主語かという違いである。現在は我々が主語になり、将来は神が主語になる。
この違いの中でこそ、「隠れたところにおいて」と言われていることが語られるのである。「隠れたところにおいて」とは、現在隠れているのであり、見えないのであり、報いはないのである。「隠れたところにおいて」は、将来しかない。将来を生きることが「隠れたところ」である。現在がないがゆえに、将来がある。現在隠れているがゆえに、将来現れる。これが、イエスが語っていることである。
イエスは、隠れたところに隠れている神が将来の神であり、現在の神は人間であると語っているのではないのか。現在の神に仕えること、それが罪に仕えることであり、悪に従うことである。将来の神に仕えることが真実に神に仕えることである。今、何も報いを受け取らないことが神に仕えることである。将来返し給う神に仕えることが真の神に仕えることである。隠れたところで見ている神が返すのだと信じて、今「報い」を受け取らずに生きることが信仰における生である。
しかし、我々は恵みが先行していると教えられていたのではないのか。まず恵みをいただいているからこそ、我々は神に応えるのだと。そうなのだ。恵みをいただいているということに応えることは、隠れたところでのことである。隠れたところで、見えない応答をすることである。そうしてこそ、我々は既に与えられているものとしての恵みへの応答の行為を行うことができるのである。さらに、将来神が返すことを信頼することこそが、今何も受け取らなくとも与えられたものとして感謝して応えることである。
従って、祈りも今何も受け取らなくとも、祈るのである。断食も今何も受け取らなくとも、受け取っているかのように断食を気づかれないようにするのである。こうしてこそ、我々は恵みへの応答としての今を生きるのである。何もいただかなくともすでにいただいている将来を信頼しているからである。信じる者は、将来を今生きているのである。このように生きることこそが、隠れたところで見ている神に向かって生きることである。キリストも十字架の上で、将来与えられる復活の命をいただいている者として生きたのだ。神への応答として生きたのだ。それゆえに、神が返した、キリストの命を。
神が返すとは、神がその人に与えられるべきものを返すことである。与えられるべきものを与えられていると信じる者は、すでに得ている。しかし、今現在持っているわけではない。それでも、得ていると信じているのである。こうして、我々はすでにと未だの緊張を生きるのである。
神は返し給う。神は返しておられる。報いを今求めることはない。すでに神が返してくださる信仰のうちに生かされているのだから、すでに得ているのだ、施しのお返しも、祈りのお返しも、断食のお返しも。我々はこうして将来を生きるのである。
キリストが十字架の上で、将来を生きたように、たとえ塵になったとしても、将来を生きたように。我々も塵として将来を生きるのだ。塵から造られたのだから、塵に返る。しかし、神は塵から再び起こすことができるのだ。この信仰のうちに我々は生きて行く。キリストの十字架を見上げつつ。
これから始まる四旬節を、塵に返る者として生き、塵を起こし給う神を信じて、歩み続けよう。あなたの命は神が返し給う。
祈ります。
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