2014年3月9日 末竹十大牧師
「つかめないイエス」
マタイによる福音書4章1節〜11節
「もし、あなたが神の息子であるならば、言いなさい。これらの石たちがパンたちとして生じるように。」と試験する者である悪魔が言う。「神の息子であるならば」という仮定が語られた後に、命令が語られる、「言いなさい」と。何故に、悪魔は命令するのか。悪魔が何故に、イエスに命令する権限を持っているのだろうか。いや、悪魔は権限など越えても、人間を試験するのである。試験は、合格することを目指して行われるのではなく、失敗することを目指して行われる。試験する側は、失敗を促すことが目的なのである。これは、この世のあらゆる試験において目指されていることである。通常の試験も、振り落とすために行われるのだから。従って、悪魔は権限があろうがなかろうが、かまわずに、振り落とす方向に促すのである。
しかし、この試験は神が試験しているのではないのか。悪魔がイエスを試験することを許しているのではないのか。「悪魔によって試験されるために」と言われているのだから。いや、そうではない。聖霊によって荒野へと退去させられたイエスは、その結果「悪魔によって試験される」ことになった。何故なら、荒野は守りのない場所だからである。荒野には、悪しきものが暗躍している。そこへと聖霊によって退去させられたのであれば、やはり神がイエスを悪魔の試験に委ねたのではないのか。いや、イエスは聖霊によって荒野に退去したのだ。荒野は悪魔がうごめいている場所であり、そこへと退去する思いを聖霊によって与えられたイエスは、その思いに従って赴いた。しかし、悪魔はそのようなイエスに近づくのである。試験するために。
この試験は、「神の子である」ことを試験するように思えるが、悪魔は「神の子である」ことに失敗するように導くのである。そのような試験問題を提出している。「石がパンとして生じるように言え」と言う。「身を投げよ」と言う。そう言って、「神の子であること」を捨てさせようと試験するのである。この試験は、如何に答えても、人間の意志に従う限り、失敗するのである。神の子は、自分の意志ではなく、神の意志に従う存在だからである。イエスは自分の言葉では答えない。神の言だけで答えている。ここに神の子の在り方が示されているのだ。神の子とは、神の言に従うのだということが示されているのだ。イエスが神の言に従う限り、悪魔はイエスを捕まえることができない。何故なら、悪魔は人間の意志に働きかけるからである。
悪魔の最初の試験問題に対して答えるイエスの答えの中に、神の子としての生き方が示されている。「パンのみの上にではなく、人間は生きるであろう。むしろ、神の口を通して出てくるすべての語られた言葉のうえに。」と。悪魔は「もし神の息子であるならば」と問うたのに、イエスは「人間は生きるであろう」という聖書の言葉をもって答えている。聖書には「神の子」という言い方はほとんど出てこない。しかし、少なくとも三つの種類の存在が「神の子」として旧約聖書には出てくる。一つ目は天使のような存在、二つ目はイスラエルの民、三つ目は神に従う者である。このうち、イエスは神に従う存在としての神の子である「人間」に言及する聖書の言葉を引用するのである。「神の子である」とは、神の意志によって生かされている人間なのだということである。神の口を通して出てくる語られた言葉が人間を生かすのである。それは、神の意志が人間を生かすということである。それゆえに、パンがあっても、神の意志がなければ人間は生きていないということである。そのように生きている存在が人間であり、実は神の子なのだと、イエスは聖書に書かれていることを理解しているのである。このような理解に基づいてこそ、イエスの教えの言葉が語られるのだ。「わたしの天の父の意志を行う人そのものが、わたしの兄弟、姉妹、そして母である。」と。神の意志に従わないならば、神の子として生きてはいない。悪魔の子として生きてしまう。悪魔は、人間が神の意志に従わないようにと促すからである。その際、我々人間の意志に働きかけるのが悪魔なのだ。イエスは、ご自身の意志によって悪魔に対抗したわけではない。悪魔の試験問題に、神の言によって答えたのである。イエスの意志はここには介在していない。介在しているとすれば、この聖書の言葉を選んだ意志である。しかし、イエスは、自分で選んだというよりも、神の言に従っただけなのだ。「人間とは何か」と言えば、「神の口から出てくる語られた言葉のうえに生きる」存在なのだと。このように生きることこそ、我々人間が神の子として生きる道なのである。
それでは、神の言の通りに、身を投げよと悪魔は二つ目の試験問題を提出する。しかし、イエスは再び聖書の言葉によって答える。「あなたの神、主を試験してはならない」と。「試験する」主体は人間である。それゆえに、神の意志に従っていない。しかし、何故に、神を試験するなとの言を引用したのであろうか。悪魔の試験問題は、神の言の通りに信じるのであれば、身を投げよということだった。「身を投げる」ということは、自らの意志で投げることである。それゆえに、自らの意志を発動させなければ、起こり得ない「身を投げる」という出来事は、神の意志ではないのだ。しかも、「身を投げる」ならば、神が確かに助けるのか否かを、人間が試験するようなことになってしまうのである。それゆえに、「神を試験するな」との聖書の言葉をイエスは引用するのだ。イエスが意志を発動させないがゆえに、ここでも悪魔はイエスを捕まえることができない。
しびれを切らした悪魔は、ついに「わたしにひれ伏せ」と言う。ここでは、もはや悪魔は聖書の言葉を語らない。「神の息子であるならば」とも言わない。悪魔は、自分にひれ伏してくれれば、それで満足なのだ。それで、人間の欲望に働きかける。ここでも、イエスは神の言で答える。「行け、サタン」と言ってから、「あなたの主をひれ伏し、彼にだけに礼拝せよ」との神の言を語る。ここで唯一、イエスは自分の意志を発動している。「行け、サタン」と。しかし、これは自分が動くことではなく、悪魔に命じる言葉である。どこへ「行け」と言うのか。神の言の中へ行けと言うのだ。イエスの意志は、神の言に従うことへと人間を導くことだからである。それゆえに、神の言に従わない悪魔に、「行け、サタン」と言った後、神の言を語るのである。「そのとき、悪魔は彼を手放した」と語られている。
悪魔が「手放した」のであれば、今までつかんでいたのだろうか。いや、つかもうとして懸命になっていたが、結局つかめず、手放したということである。イエスを捕まえることができなかったのは、イエスが自らの意志を発動しなかったからである。では、イエスは自らの意志を持たないのだろうか。つかめないイエスは、意志がないがゆえにつかめないのだろうか。いや、あるのだ。神に従う意志が。それゆえに、悪魔はイエスを捕まえることができないのだ。神の意志に従うことだけがイエスの意志なのだから。
神の意志に従う意志こそ、十字架を引き受ける意志である。「もし、可能なことであるならば、この杯がわたしから通り過ぎますように。しかし、わたしが意志するようにではなく、むしろあなたが意志するように。」と、ゲッセマネで祈ったイエスの意志と同じである。イエスは「あなたが意志する」ことに従う意志に生きている。神の意志がなければ、わたしは如何なるときも生きていないというところに立っている。それゆえに、神の意志を受け取ることだけが、イエスの意志なのである。
この生き方こそが、人間の生き方であるとイエスは示してくださったのだ、悪魔の試験を通して。神がイエスを試験するために、悪魔を遣わしたのではない。聖霊によって、荒野に退去させられたイエス。神の意志に従って、イエスは荒野に向かったのだ。そこで近づく悪魔が、イエスに試験されたのである。試験に失敗したのは悪魔の方である。試験する者が、試験され、失敗する。これが、「悪魔が彼を手放した」という言葉が語っていることである。悪魔はつかめなかった。手放さざるを得なかった。神の意志に従う者は、悪魔の試験ではつかめない存在なのだ。悪魔が近づいても、つかむことができず、神の守りのうちに生きるのである。それゆえに、ゲッセマネの祈りにおいて祈った如く、イエスは「あなたが意志するように」生きたのである。十字架で死んでもなお、神が意志するがゆえに、生きたのである。十字架に架けられることさえも、神の意志として受け入れ生きたからである。すべては神の意志に従って生じる。その中で、悪魔が近づき、お前の意志を発動させよと促すのだ。しかし、我々の意志は悪であるがゆえに、発動してしまうと罪に陥る。善き意志と思えても、人間の意志は悪なのだ。ただ、神の言、神の意志に従うことのみ、善なのである。そのとき、我々は神の意志によって生かされる。
四旬節を過ごす我々は、このイエスの在り方を仰ぎつつ、神の意志に従って生きるのだ。あなたを生かす意志に従って。
祈ります。
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