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2014年3月16日 末竹十大牧師


「人の子の如く」

マタイによる福音書20章17節〜28節

 

「人の子が仕えられるために来たのではなく、むしろ仕えるためにと、そして多くの人たちの代わりの買い取り金として、彼の命を与えるためにと、ちょうど同じように。」とイエスは言う。仕えることは、「人の子の如く」に生きることだと言う。仕えるため、自分の命を与えるためとちょうど同じようにと言う。我々が、キリストのものとして生きるということは、「人の子の如く」に生きることだと言うのだ。そのように生きることはできないと、我々は思う。イエスだからできたのであり、イエスだけが多くの人たちのために命を与えることができるのだと考える。我々にはできなくとも良いのだと考える。しかし、イエスは言うのだ。あなたがたは仕えなさい、人の子の如くにと。

このような困難なことを我々キリスト者に告げるイエスは、厳しいお方だと思ってしまう。そして、できれば、厳しい言葉ではなく、できなくても良いのだと言って欲しくなる。しかし、イエスは言うのだ。人の子の如くに、人に仕えよと。この言葉を否定することはできない。薄めることもできない。イエスが語られた言葉として、我々は聞かなければならないのだ。

我々にできることをイエスは語っているのだろうか。そうであれば、我々は誰でも仕える者として生きていたであろう。しかし、我々は仕えるどころか、仕えさせることができる地位に就きたいと思ってきた。人を使う人間になりたいと思ってきた。人からかしずかれる人間が偉いのだと思ってきた。しかし、イエスご自身が「仕えるために来た」と言うのだ。「自分の命を与えるために来た」と言うのだ。その人の子の如くに、仕えよと言うのだ。我々が仕えられることを求めていることを、イエスはご存知である。我々が、仕えることができないことをご存知である。それにもかかわらず、我々に仕えよ、人の子の如くに、と言い給うのだ。我々が、仕えることができないがゆえに、イエスは命じ給うということである。できない人間に命じることはあり得ないと我々は思ってしまう。我々に命じられることは、我々に可能なのだと考えることになる。しかし、我々には不可能なのだ。

また、我々は命じられるということは、認められているのであり、必要とされているのだと考えてしまう。しかし、必要であろうとなかろうと、イエスは命じ給うのである。何故なら、ご自身がそのように生きているのだから、同じように生きて欲しいからである。人の子の如くに生きて欲しいがゆえに、イエスは我々に仕え給う。仕えることによって、我々が仕える者となるようにと、仕え給う。仕えることは、我々には不可能であるが、イエスが仕え給うがゆえに、可能とされるということである。ただし、イエスが仕え給うことを、我々がありのまま受け取るときに、可能とされるのだ。

我々は、仕えることも仕えられることも、自らに価値があるからだと思いたいのだ。仕えられるわたしは価値があると思いたい。わたしに仕えるように命じ給うのも、わたしに価値があるからだと思いたい。そうすれば、わたしは価値があるから、可能なのだと思えるからである。しかし、そうではない。あなたは何の価値も無い。イエスに仕えていただく価値などあなたにはないのだ。我々は、イエスに仕えていただく価値などないのだ。それなのに、イエスは仕えてくださる。価値なき者に仕えるということは、仕える自分を価値なき者としているということである。価値なき者として仕えているということである。イエスが価値なき者であるならば、我々は自らが価値があるとは到底言えない。そのような最底辺の者として生きるのが、イエスなのだ。それゆえに、イエスに仕えられた者は、最底辺に支えられた者なのだ。イエスは絶対的に価値なき者として、この世で価値なき者に仕えるのである。自らの価値を捨てて、仕えるのである。これが人の子なのだとイエスは言うのである。それゆえに、あなたがたは価値なき者としての人の子の如くに生きよと命じるのである。

この世の価値に生きている我々は、価値なき者に何の力があるのかと思ってしまう。価値があるがゆえに、力もあるのだと思ってしまう。しかし、神の国では反対なのだ。まったく力なき者が、神の力に満たされるのだから。何の価値も無い者が、神に受け入れられるのだから。それゆえに、我々は自らが持っている価値を、価値観を捨てなければ、イエスに仕えていただく者として生きていないのである。仕えていただくような価値を持っていない者として、自らを認識しなければ、イエスに仕えていただくことを受け入れることはできないのだ。そして、自らも人の子の如くに仕えることはできないのだ。それゆえに、今日イエスは命じるのである。

イエスが、ご自身の命を与えたとしても、その命には価値がないと、この世は考える。我々も、そのようなイエスを信じる者として、価値なき者だとこの世は考える。何の力にもなり得ない者だと、この世は考える。こうして、この世は自らの価値観によって、イエスを拒否し、イエスに仕えていただいた者を拒否する。そして、拒否した自らが、イエスに拒否されるのだ。この世は、価値ある人間が上に立つと考えるがゆえに、下にいる者は価値なき者である。この価値観の中で、人間は苦しめられる。下であればあるだけ、価値なき者だと思ってしまう。必要とされていないと思ってしまう。自分だけが外されていると思う。こうして、この世の価値に支配されて、自らを失ってしまう。

そうではないのだ。イエスが十字架に架かっても、それは何の価値も無いことだと考えるのが、この世の価値なのだ。実際、すべての人間が悔い改めるわけではない。イエスの十字架に神の力を認めるのは、少数の人間だけである。こうして、我々は神の力を価値無き力としてしまう。我々が価値を求めるがゆえに、価値の支配に陥ってしまう。この世は上に立つ者に価値あるのだから。しかし、キリストに従う者たちの間では、そうではない。誰もが、価値なき者。誰もが、キリストに死んでいただくだけの価値を持ってはいない。それにも関わらず、キリストは死んでくださる。見返りなど求めない。ほんの一握りの人間だけがキリストを認めたとしても、全体が認めていないのだから、キリストには価値がない。そのような死をキリストは引き受けたのだ。それゆえに、キリストに仕えていただいたと信じる人間は、価値を求めない。最初から、価値なき者なのだから。それでも、このわたしのために、キリストは死んでくださったのだと信じるのだから。

我々が、価値を置く世界において、価値無き者として、キリストは生きておられる。キリストは、あなたのために生きておられる。あなたが、価値があるからではない。価値なき者であろうとも、キリストは死んでくださり、生きてくださる。こうして、我々はキリストのものとして生かされるのだ。ただ、生かされる。仕えられる者ではなく、仕える者として、生かされる。そのとき、我々は何も認められずとも、キリストが死に給うた心を生きている。そのとき、キリストは、我々のうちに生きている。このお方が生きておられるのだから、わたしは価値無くとも生かされているのだ。価値無く、取るに足りない人間であるわたしに、命を与えるために神はキリストに十字架を負わされたのだ。このお方の死によって、わたしは神の愛に包まれているのだ。

あなたは価値無くとも、愛されている。信用されない人間であろうとも、罪深くとも、愛されている。神が生きて欲しいと願っておられる。このわたしが、神の方を向いて、神の力で生きて欲しいと願っておられる。そのような存在として生きて欲しいと、神はキリストに仕える使命を与えられたのだ。

我々は、仕えられた者として、見返りを求めず、仕えるのだ。互いに仕える者たちのうちに、キリストは生きてくださる。我々がキリストの形になるようにと生きてくださる。このお方に従って、神に愛されている者として、生きて行こう。あなたは、神のもの、キリストのもの、愛されている者、神の子なのだから。

祈ります。