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2014年3月23日 末竹十大牧師


「躍り上がる水の泉」

ヨハネによる福音書4章5節〜26節

 

「わたしがその人に与える水は、その人のうちで、永遠の命へと躍り上がる水の泉として生じるであろう。」とイエスはサマリアの女に言う。イエスが与える水が、人間のうちで変化するというのである。水を飲み、飲んだ水が喉を潤す。しかし、一時的に潤すだけである。自らが摂取する水は、一時的な水である。ところが、摂取した水が変化するのだとイエスは言うのだ。その変化は、摂取する方向ではなく、躍り上がる方向に変化するのである。摂取する方向では、欠乏と摂取が繰り返される。しかし、躍り上がる方向では欠乏は生じない。これは、どういうことであろうか。

欠乏が生じるから、摂取が必要になる。自らのうちに欠乏がなければ、摂取は必要ない。むしろ、他者に与える方向に溢れることになる。イエスがこのように言うのは、何故なのか。どうしてそのような変化が起こるのか。

摂取ではなく、贈与。欠乏ではなく、溢れ出し。躍り上がる水とは、自分のうちから湧き溢れる水である。しかし、これが喉の渇きと何の関係があるのか。身体を持っている限り、喉は渇くのである。渇くがゆえに、水を摂取する。この水が、体から出ていかないならば、水を摂取することはないが、自分の中で巡っているだけである。そして、澱んでいくだけである。体内に摂取されて、体外に排出されるがゆえに、新鮮な水を摂取することができる。人間は、欠乏することで、新しいものを摂取することができるのである。

しかし、イエスは摂取する方向ではなく、躍り上がる水という泉の方向性に変化する水を語る。これは、自らの欠乏という自己の事柄ではなく、他者に向かう噴出の事柄への変化である。欠乏を満たそうとしても、いずれ欠乏する。そのくり返しが人間の営みでもある。そして、常に摂取する方向で生きるのが自然的人間である。その典型が、サマリアの女なのだ。彼女が、結婚を繰り返したのも、欠乏を満たすためである。彼女は、自らが欠乏したものを繰り返し満たしながら、取り去られ、満たされない生を繰り返していた。彼女は、摂取する方向で生きていた。獲得する方向で生きていた。そして、哀れまれることを避けて、町の外の井戸へと水汲みに来る生活を続けていたのだ。彼女は、獲得するために労苦していた。この労苦からどうしたら解かれるのかと考えてもいたであろう。彼女は疲れていた。イエスは、その女の疲れを知って、声をかけたのだ。獲得する方向、摂取する方向からの転換が起こると彼女に告げるために。そのときは来ているのだと告げるために。彼女の労苦を知るお方は、旅に疲れたイエスだけだった。

イエスも、「飲むことをわたしに与えてください」と女に求めた。イエスが「与えてください」と語ることによって、イエスは女の心を代弁している。彼女がいつも求めている「与えられること」をイエスは語る。そして、彼女が「与える」者となることを求める。イエスは、彼女に与える生を与えようとしたのだ。「飲むことをわたしに与えてください」と。

イエスが与える水は、「与える」という方向に生きている水である。獲得する方向、摂取する方向に生きている水ではないのだ。躍り上がる水の泉は、与える方向で活き活きと生きているのだ。その泉は、永遠の命に向かって水を躍り上がらせている。誰かに与えるということではないのだ。躍り上がる水は、与えることで何かを得ると考えないからである。ただ、躍り上がっているのだ。この水は欠乏とは関係ない。摂取とも関係ない。ただ、躍り上がるだけなのだ。そのとき、渇くという欠乏は忘れられている。いや、渇くという次元から解放されている。与えた結果を求めるならば、渇くのである。そうではなく、ただ与えるのである。そのとき、渇くこととは違う次元で生きているのである。

我々が生きるということは、ただ生きることである。神は我々がただ生きることを望まれたのだ。しかし、罪を犯す人間は、結果を求めた。そして、結果に振り回され、欠乏を感じ、摂取を繰り返すことになってしまった。この悪循環から解放されることが、永遠の命である。神の国である。イエスが与える水は、この悪循環から解放する水である。躍り上がる水の泉とする水である。生きている水である。命の水である。我々を生かす水である。自らのうちで循環する水ではなく、自らのうちに摂取される水でもなく、自らのうちから溢れ出す水である。

イエスはこのような水を与える。与えるだけのお方がイエスである。救い主も、救いを与えるだけのお方である。自らは、救った結果を求めない。救った結果、すべての人間が救いを生きるとは限らない。それでも救う。それが救い主、メシアである。メシア的生は、与える生である。結果を求めない生である。ただあることを生きる生である。イエスが言う「わたしはある」ということを生きている生である。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」と訳されている言葉は原文ではこうである、「あなたと話をしているわたしはある」。イエスは「わたしはある」と言うのだ。あること、生きていること、それがわたしであるとイエスは言うのだ。メシアであるとは、「わたしはある」ことなのだとイエスは言うのだ。あることを生きているメシアは、与えることを生きている。与えるだけに生きている。救うだけに生きている。それこそが、躍り上がることである。解放されていることである。自らに獲得することを求めない生である。そのとき、我々は真実に生きているのである。イエスは、メシアとして、真実に生きる生を与えると言うのである。それこそが永遠の命へと躍り上がることだと。

我々が生きるということは、欠乏を満たすことではない。躍り上がる水のように生きることである。そのような泉を与えられている者として生きることである。躍り上がる水を生きるならば、我々は欠乏から解放され、渇くことなく、他者を潤し、自らを潤すことができるのである。このようになるには、イエスが与える水を飲むことが必要である。それは、どのように与えられるのか。

女は、汲むものがなければと考えた。しかし、そうではない。汲むものなど必要ない。汲むものは自らが獲得する方向で使われるからである。自らが獲得するのではない水は、ただイエスから与えられることを受け取るだけである、「飲ませてください」と。そのとき、あなたは受け取っている。そして、与えることを躍り上がるように生きる。あなた自身からは出てこない水なのだと認めるとき、あなたはイエスに求めるであろう。そして、与えられる、与えることを。

我々からは、与えることが生じることはない。神が生じさせなければ生じない。我々人間は、与えるのではなく、獲得し、所有する方向で生きているからである。所有し、消費し、欠乏し、獲得する。この悪循環を生きている限り、我々は永遠の命には至らない。ただ、与えることを生きるとき、永遠の命へと躍り上がる。そのために、キリストは十字架を引き受けられたのだ。我々が躍り上がるために、十字架を引き受けられたのだ。十字架の苦しみによって、我々に開かれる生。それが、躍り上がる生である。キリストの十字架は、与えることを与える生である。与える生をあなたが生きるようにと、キリストは十字架を負われた。あなた自身が閉ざしている生が開かれるようにと、十字架を負われた。この十字架を、わたしのための十字架と受け取るとき、あなたはキリストが与える水を受け取っている。そして、与える生があなたのうちに生じている。躍り上がる水の泉が開かれる。キリストの十字架によって、開かれる。

獲得する生から解放されて、十字架のキリストに従って行こう。四旬節は、あなたのための十字架を受け取る期節である。キリストがあなたのうちに形作られるように生きる期節である。キリストの生が、あなたの生となる期節である。この四旬節を生きた果てに、躍り上がる水の泉が生じているであろう。キリストがただ与えるように生じているであろう。あなたのうちに、生じているであろう。キリストが語られた通りに。

祈ります。