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2014年3月30日 末竹十大牧師


「神の業の現在」

ヨハネによる福音書9章13節〜25節

 

「彼が罪人であるかどうかを、わたしは知ってしまっていない。一つわたしは知ってしまっている。盲人であって、今わたしが見ていることを。」と生まれつき盲人であった人が言う。彼は、盲人であるわたしが現在見ているということを、「知ってしまっている」と言うのだ。盲人であるということがありながらも、現在見ていることが起こっている。これが、彼が知りうる唯一のことである。イエスが罪人かどうかは知ってしまっているわけではない。彼はイエス自身を知ってしまっているわけではないのだ。しかし、彼自身が知ってしまっている唯一のことがある。それが、自分自身が盲人であるということと、その自分が現在見ているということである。盲人であるという認識と現在見ているという認識が重なっている現在のわたしがあるのだと、生まれつき盲人である人は言うのだ。

ファリサイ派の人たちは、彼が現在見ていると答えても、本当に盲人だったのかと何度も疑う。そして、イエスがどのようにして目を開けたのかを聞く。両親に尋ねても、彼らは答えられない。知っているのは、目を開けてもらった盲人だけである。しかし、その盲人の証言をファリサイ派の人たちは信じない。「盲人であって、現在わたしが見ている」と盲人が言っても、信じない。当然であろう。信じられないのである。ところが、現実は現前にあるだけである。盲人はそれを知っていると答えるしかない。それだけが彼が知ってしまっていることだからである。これが神の業である。

神の業は、その業に与っている本人の認識である。神が働いているのに、働いてくださっていると見ることができるのは、信仰が与えられているか否かによる。信仰が与えられているならば、神の業を見ることができる。信仰が与えられていなければ、神の業を見ることはできない。ただ、それだけである。ここで使われている「知る」という言葉は、オイダというギリシア語である。もうひとつギノースコーというギリシア語も「知る」と訳される。オイダは、「事実を知る」という意味で使われるが、ギノースコーは「経験的に知識を得る」という意味である。さらに、オイダは「見る」という言葉と同根の言葉であるから、ここで盲人が語っているのは、自分が見ている事実を知っているということである。それだけが、彼が知り得ることであると。これは経験的に知識を得たということではなく、ただ見て知っているという意味である。盲人が見て知っていると語っていることに、意味がある。それが、「盲人であり、現在わたしが見ている」という事実なのである。

ファリサイ派の人たちは、彼が盲人であることを見て知ってはいないのだ。事実を知らないにもかかわらず、盲人であることを否定しようとしている。確かに、彼らは彼の目が見えなかった事実を見てはいないのだから、知らないのだ。見てもいない人間が現在見ている人間を否定する。これがファリサイ派の人たちの罪である。そして、我々人間の罪である。決めつけてしまう罪である。決め付けによって、我々は自分が見てもいないことを確定してしまおうとするのである。そして、現実を受け入れない。この罪がイエス殺害に向かうことになるのだ。

見てもいないことを否定できるわけがない。見ていないから否定するということは、復活を見ていないから否定するということと同じである。「主イエスが見られた」という証言を、見ていない人間が幻想だと否定する。思い込みだと否定する。それは、証言者の思い込みか、証言を聞いた人の思い込みか。どちらが思い込みなのか。現実は、見た人の現実である。見ていない人間が見た人の現実を、現実ではないのだと思い込んで、否定することになる。それは、神の業を見ることと同じである。神の業は、我々の目に見えない。いや、行っている神を見ることはできない。しかし、神の業を受けた人は、神の業だと見ている。それを他者は思い込みだと判定する。自分が見ていないからである。

自分が見ていない事実を否定することができる人はいないはずである。見ている人は否定できない。ただそれだけである。そうであれば、神の業は、見た人に現実であるが、見ていない人には現実ではない。誰の目にも現実に見えることを現実と呼ぶ立場からすれば、自分が見ていない現実を他者が見ていても、現実とは認められない。まして、神の業は、現実の中で見えるものではないのだから、見た人の現実でしかない。見た人は、神の現実を開かれて、見せられたのである。これは、見た人自身には確かなことである。しかも、この盲人はファリサイ派の人たちの詰問に、恐れることなく、現実を語る。恐れがないということにおいて、盲人は神の業を見ているのである。神の愛を見ているのである。「愛には恐れがない」とヨハネの手紙一418節で語られる通りである。盲人は神の愛に包まれている。神の業は、神の愛から発しているからである。だから、彼に恐れはない。如何なる人の前であろうとも、自分自身が見ている現実を語ることができるのである。彼自身が神の前に立って、神の業を証言しているからである。

この盲人を見て、最初にイエスはこうおっしゃっていた。この人が生まれつき盲人であるのは、「この人が罪を犯したのでもなく、彼の両親がでもなく、むしろ、神の業が、この人のうちで、明らかにされるためである」と。弟子たちがイエスに問うたのは、この盲人の原因である。しかし、イエスが答えたのは、この盲人の目的である。神が彼をどこに導こうとしているかである。「彼のうちで、神の業が明らかにされるためである」と。

彼が盲人である事実は、原因による結果と見るか、目的に向かう現在と見るかで違ってくるのである。原因による結果という立場は、過去に規定された現在で終わってしまう。そして、あきらめしか生じない。反対に、目的に向かう現在であれば、盲人の未来が見えてくる。彼のうちで、神の業が明らかにされる現在によって、彼には未来が開かれるのである。何故なら、過去に規定された現在ではないからである。むしろ、過去は過去としてあったが、現在彼がどこに向かって生きる者とされるのかが問題だからである。従って、イエスがおっしゃった通り、盲人は盲人である現在と見ている現在を、自分は知っているのだと語ったのだ。そこにおいて、彼は過去から解放されている。現在から未来へと開かれている。イエスは、盲人の人生を開いたのだ。それは、ただ目を開けたということではなく、彼自身のうちで働き給う神を見えるようにしたということである。それゆえに、盲人は盲人であって、見ているのである、神の業を。

我々を過去に縛り付ける働きは、罪の働きである。悪魔の働きである。未来に開いていくのが、神の働きである。これこそが、神の業である。イエスは、この神の業を行ったのだ。盲人のうちで、神の業が明らかにされるように、神の業を行ったのだ。そして、盲人が恐れなく生きることができるようにしたのだ。それこそが、イエスの十字架の働きである。キリストの十字架は、我々の人生を未来へと開いていく。過去を抱えて、逡巡している我々に、神の業の現在を見せて、未来へと向かわせるのである。キリストの十字架は、神の業の現在である。神の業が今現在、あなたを開くのだと語りかける言である。十字架によってこそ、我々は自らの人生を開かれたものとして生きて行くことができるのである。

十字架も罪人の姿でありつつ、神の業である。一般的には、イエスが罪人だったから十字架に架かったのだと、過去から現在を見るように働くであろう。しかし、信仰を与えられている人間には、十字架は神の業の現在である。我々の罪を赦し、罪から解放し、神の業の中で生きるように促す神の力である。四旬節を過ごす我々は、神の力を信頼して、イエスと共に歩み行こう。あなたの目が開かれ、神の業があなたのうちで、明らかにされるために、あなたの現在があるのだ。あなたの過去は、あなたを縛り付けることはもはやない。現在から未来へとあなたは開かれている。十字架に架けられたイエスの体と血が、我々を未来へと開く神の力である。今日もまた、感謝して受け、共に生きて行こう、神の業の現在を。

祈ります。