2014年4月6日 末竹十大牧師
「復活の現在」
ヨハネによる福音書11章17節~53節
「わたしはある、復活として、命として。」とイエスは言う。「わたしはある」と言う。その在り方は「復活」であり「命」であると言う。「わたしはある」という言い方は、神ヤーウェの在り方である。ヤーウェが、山でモーセに現れたとき、ヤーウェの名を問うモーセに言われた言葉である。「わたしは、わたしはあるものとして、ある」とヤーウェはモーセに告げたのだ。それがヤーウェの名であると。「わたしはある」がヤーウェの名である。ここで、イエスが「わたしはある」というのも、このヤーウェの存在様態と同じである。「ある」という言葉は、ヤーウェの語源と言われるハーヤーというヘブライ語である。命はハーイと言われる。イエスが「わたしはある」と言うのは、ヤーウェの存在様態と同じように「わたしはある」と語っているのである。これは、現在形である。未来形でも過去形でもない。「ある」ということは、現在である。その現在の在り方が「復活」であり「命」であると言うのだ。イエスの存在様態は、「復活」という新たに立つことであり、「命」という生きる在り方なのである。この在り方を、何故にここでイエスは語るのであろうか。兄弟ラザロが死んでしまった姉のマルタに何故語るのか。それは、マルタがこう言ったからである。「主よ、もし、あなたがここにあったならば、わたしの兄弟は死ななかった。」と。このあとマリアも同じようにイエスに語った。この言葉は、過去形である。それに対して、イエスは現在形で「わたしはある、復活として、命として」と語った。過去で考えているマルタとマリアに、現在を語るのである。その現在に信仰が関わっている。「わたしはある、復活として、命として」というイエスの存在様態を現在認め、信じているならば、永遠に死なないし、死んでも生きるであろうとイエスは言うのである。これは、どうしたことであろうか。そのようなことがあるのだろうか。
ここで言われている「信じる」という出来事は、わたしが信じるという信仰心のことではない。イエスを信じることであるが、イエスの中へと信じることである。イエスの中に入ることである。イエスの中に入るのだから、イエスに包まれる。「わたしはある、復活として、命として」というイエスに包まれている状態が、ここで言われている「信じる」という出来事なのである。「死んでも生きる」とは、死んで新たに生きるのだから「復活」である。「死なない」とは、死を見ないのだから「命」である。そのようなイエスご自身の中で生きる人のことを、「わたしを信じる人」とイエスは言うのである。信仰は「わたしはある」という現在形で生きているイエスを信じることだから、信じる者は現在形で生きているのである。マルタとマリアは、ラザロの死が起こったのは、イエスがここにいなかったからだと過去形で語った。しかし、イエスは過去形ではない。現在「わたしはある」というお方である。それゆえに、イエスは現在形で答えているのである。
我々は、過去形で生きている。「こうでなければ良かったのに。」、「あのようだったから、こうなってしまった。」と。過去形で生きている限り、我々は未来に向かうことはない。我々が過去に捕らわれている限り、我々の未来は過去で終わっている。過去が未来を規定し、狭め、脱け出せない状態になっていると思い込んでいる。しかし、イエスは言う。「わたしはある、復活として、命として」と。現在なのだ。現在が、我々が生きていることなのだ。現在においてこそ、我々は命のうちにあるのだ。現在においてこそ、新たに立つのだ。現在においてこそ、未来へ向かって歩み出すのだ。この現在が「わたしはある」というイエスの現在である。このお方のうちに生きるならば、我々は過去に縛られることなく、新たに立ち、生きることができるのである。
墓から出て来たラザロは、布でぐるぐる巻きにされていた。イエスはこう言う。「彼をほどきなさい。そして、行くように彼を手放しなさい。」と。ラザロを縛っていたのは、彼をぐるぐる巻きにした周りの人間である。マルタとマリアも同じであった。彼らがラザロを過去に縛り付け、動けなくしてしまったのである。それゆえに、イエスはラザロをほどき、彼が行くように手放せと言われるのだ。
我々は、自分が縛られているだけではなく、他者を縛る。こうして、互いに身動きできないようにしてしまうのである。これが罪の働きである。イエスが憤り、涙を流したのは、罪に支配されていることに対してである。人間の罪が、ラザロを縛り付けていた。ラザロが身動きできないようにしていた。それをほどかせるイエス。イエスは、人間の罪をほどくのである。過去に縛られて身動きできない人間を、過去から解放するのである。現在を生きるようにするのである。それゆえに、イエスは「わたしはある、復活として、命として」と言われるのである。
そうなのだ。イエスは、現在において、我々が新たに立つようにするお方である。我々が現在を生きるようにするお方である。このお方がいてくれたらという過去からも解放するお方である。イエスは常に現在しているからである。イエスの現在は「わたしはある」という現在である。常にイエスは「わたしはある」なのだ。「ここにいなかった」とマルタとマリアが語る過去においても「わたしはある」お方として現在しておられたのだ。それを信じることができなかったマルタとマリアである。将来起こる復活を信じてはいたが、現在を信仰のうちに生きていなかったマルタとマリアである。現在は現在である。過去は過去である。過去において、如何に不信仰であろうとも、現在を生きることができる。新たに生きることができる。イエスが来られて、ただ語ることによって、生きることができる。イエスの言葉によって、現在を生きることができる。そのとき、我々は自分の信心力によってではなく、イエスの言葉によって信じているのである。イエスの言葉が与える信仰によって生きているのである。マルタとマリアは、イエスの言葉によって、復活が現在することを見せられた。復活は将来ではない。復活は現在であると見せられた。
復活したラザロはいずれまた死んだだろうと考えるのは間違いである。ラザロはここで復活している。ここで命なるイエスのうちに生きている。それゆえに、彼はもはや死なない。もはや過去に縛られない。もはや彼はいつか復活することを待ち望まない。すでに復活の現在を生きているのである。彼を縛っていた過去はほどかれた。彼を縛っていた死は働かなくされた。ラザロは過去からも、死からも、解き放たれた。生きていて信じる者として、生きるのである。マルタとマリアも、ラザロの復活を見て、信じるのである。彼らが自分の信心力ではなく、イエスの言葉によって信仰を与えられたからである。
「わたしはある、復活として、命として」とおっしゃるイエスが現在している。このお方のうちに生きるならば、我々は縛られず、解放されて生きることができるのだ。あなたを縛っていた罪の縄目がほどかれ、あなたを動けなくしていた人間たちの手から放たれ、あなた自身を生かすお方の命を生きる。イエスはこの命、この復活を今日語る。復活であり、命であるお方が語る。復活は現在である。命は現在である。現在する復活がイエスである。それゆえに、十字架に死んでも生きるのである。
このお方は、いつから復活として、命として「わたしはある」を生きておられたのだろうか。この世の始まりからである。「すべてのものは言葉を通して生じた。生じたものは、彼なしには一つも生じなかった。」とヨハネによる福音書1章3節に言われている通りである。イエスは、命を生じさせる言として「わたしはある」を常に生きている。復活の現在として常に生きている。このお方の死は、死の死である。死が死ぬことである。十字架は、死を働かなくする神の力である。
イエスの死を通して、死は働かなくされた。今日、ラザロが死から解放されたように、信仰を与えられた者には死は働かない。今日共に与るキリストの体と血は、我々を信じる者として造る神の力である。永遠の命へと導く神の力である。復活の現在を生きるようにする神の賜物である。感謝して受け、十字架に従って生きて行こう、復活の現在を。
祈ります。
|