2014年4月13日 末竹十大牧師
「この人は誰か」
マタイによる福音書21章1節〜11節
「この人は誰か」と言って、町全体が揺れ動いたとマタイは語る。「この人は誰か」と問う町全体とはいったい誰なのか。町全体は個人ではない。個々の人間が集まっているものでもない。町全体と言われているのだから、個人の集まりとしての複数ではなく、町全体という単数である。つまり、単数として一つである町全体が問うのだ「この人は誰か」と。町とこの人が対峙している。町と対峙するこの人のことを、群衆は他人事のように答える。「この人は、預言者イエスである。ガリラヤのナザレからの」と。群衆にとって、イエスは「この人」という客観的存在である。そして、町全体はイエスに対峙して、「この人は誰か」と言う。町がイエスを異質な存在と見ている。
「この人は誰か」と他者に対して感じるとき、その人の異質性を我々は受け取っているのだ。それゆえに、エルサレムという町は、イエスの異質性を感じ取り、イエスを拒否する姿勢をこのとき示しているのである。個々の人間が、イエスと対峙しているのではない。個々の人間はエルサレムという町全体の中に埋没している。群衆は、群衆として町全体を客観的に見ている。彼らは、エルサレムという町にやってきた都詣でのユダヤ人である。町は、彼らを同じユダヤ人として受け入れている。町に対峙しない存在として受け入れている。しかし、イエスはエルサレムという町と対峙する存在なのである。それゆえに、エルサレムという町全体がイエスを問うのだ、「この人は誰か」と。
この問いにおいて、エルサレムはイエスを拒否している。「この人は誰か」という問いは、この人が分からないというのではなく、異質であり、受け入れたくないという意志の表明である。それゆえに、この問いにおいて、イエスを拒否するエルサレムが語られているのである。受け入れたくないがゆえに「この人は誰か」と問うエルサレム。この人が「ガリラヤのナザレからの預言者イエスである」と言われても、その異質性が取り除かれるわけではないのだ。この問い自体は答えを求めているわけではない。答えは必要ないのだ。如何なる存在であるかが答えられたからと言って、その存在を受け入れたくないと感じているのだから。この問いを発する存在は、受け入れたくないと表明しているのだ。
我々もこのような問いを発することがある。そのとき、身内や知り合いと関わりのある存在であれば、仕方なく「そうでしたか」と答えることはある。しかし、最初に感じた異質性は変わり得ないのである。「この人は誰か」と感じたとき、人は拒否する心で、異質性を感じつつ、語っているのである。「この人は、どうしてここにいるのか。」、「この人はどうしてロバに乗っているのか。」、「この人を取り囲む群衆は何なのか。」、「この人を我々は知らないが、いったい誰なのか。」と問うとき、拒否が先にあるのだ。問う存在との関係が示されたとしても、最初に感じた異質性は終わりまで続くであろう。それゆえに、エルサレムは最後までイエスを拒否するのである。この最初の拒否において、最後の拒否も示されている。
イエスは最初に拒否され、最後まで拒否された。イエスと対峙しながら、イエスが自らを破壊する存在であることをエルサレムは感じ取っているのだ。イエスはエルサレムを破壊するであろう。エルサレムという町全体を破壊するであろう。神殿はその中心であり、町全体の心である。その心が強盗の巣であることをイエスは感じ取ったのだから、町全体は自分たちの平和を追い払うイエスを拒否するのだ。町全体はこのイエスを感じ取っている。イエスは町全体が感じ取ったように、神殿で商人たちを追い出す。こうして、イエスと町全体は最初から対峙する関係に入っている。「この人は誰か」と拒否しながら、イエスを破壊するエルサレム。イエスを十字架刑に処するエルサレム。「この人は誰か」と拒否されながら、十字架において、イエスは町の外に投げ捨てられるのである。
「この人は誰か」。町の外に投げ捨てられるイエスである。町全体から拒否されるイエスである。町の外で十字架に架けられるイエスである。町を揺さぶるイエスである。十字架は、町の外で、町と対峙しながら立っている。「エルサレムか、イエスか」という対峙である。「聖なる神殿か、極悪人の十字架か」という対峙である。「朽ちて行く神殿か、朽ちている十字架か」という対峙である。正反対のものにおいて、神の意志が示されている。町の外において、神の意志が示されている。町から排除されて、神の意志が示されている。町がはき出したイエスにおいて、神の意志が示されている。「人間が立てた町か、神が立てた十字架か」という対峙が生じる。「人間の恐れの結果である町か、人間の恐れを引き受ける十字架か」という対峙が生じるのだ。「神が立てる救いか、人間が立てる救いか」という対峙。これが今日、町全体が問う「この人は誰か」という言に現れているのである。
エルサレムは、この問いを発しながら、揺れ動いている。自らの不安によって、揺れ動いている。「この人は誰か」と揺れ動いている。「この人が預言者イエスである」と言われても、揺れ動いている。それが聞きたい答えではない。イエスがエルサレムを破壊することを恐れているのだから。エルサレムは、自らの信仰が覆されることを恐れているのだ。自らが体現している信仰が覆されることを恐れているのだ。ところが、覆されることを引き受けた十字架こそ、覆されながら覆されない信仰に生きているのだ。神の意志がなるという信仰に生きているのだ。エルサレムは、町自らが破壊されないことを求めている。反対に、イエスの十字架は、自らの破壊によって破壊されない生を生きるのだ。
破壊によって、破壊されない生を生きるということこそ十字架の言である。十字架は、我々に語っている。町全体に拒否されたイエスを神が起こされたと。滅びである十字架が救いであると。「他人は救ったのに、自分は救えない」と、十字架上で苦しむイエスを罵った群衆の言葉は、まさに十字架の真実を語っている。他人を救うために、自らが破壊される十字架こそ、神の命であると。神の意志であると。
イエスは、この十字架を引き受けるために、エルサレムに入城するのだ。自らを拒否するエルサレムに入城するのだ。エルサレムから拒否されるために、入城するのだ。エルサレムに入り、はき出されるイエス。このお方こそ、はき出されることですべてを受け入れる救いを完成されたお方。イエス、主は救いというお方。ヤーウェが救いであるという名に従って生きたイエス。このお方の十字架において、我々は自らの肉が破壊されるのを見るのだ。我々を支配している肉を破壊する十字架。イエスを拒否する町全体の平和が、自らを破壊するのだ。自らを守る者が自らを失う。自らを捨てる者が自らを救う。イエスはその生を生きた。神に従う生を生きた。エルサレムに入城するイエスにおいて、自らを捨てる生が示されている。自らを拒否される生を引き受けているイエス。罪から解放されたいと願うならば、イエスに従うのだ。罪深い生から救いの生に入りたいと願うなら、自らを捨てるのだ。拒否に委ねるのだ。そのとき、我々は自らが力なくとも救われている。自らが罪深くとも救われている。いや、罪深さゆえにひれ伏す者こそ、救われている者である。自らの罪深さを隠す町こそ、罪に仕えるものである。罪を増幅させるのが町なのだ。「この人は誰か」と問う町なのだ。
我々人間は、この問いから始めるのではなく、「わたしは何者か」という問いから始めるべきである。「わたしは何者でもない」というところに立つことができるならば、あなたは救われている。何者かであると思うならば、あなたは救われていない。「この人は誰か」という問いは、こう答えられるべきである。「この人の前にあなたがひれ伏すとき、この人が誰であるかが分かるであろう」と。あなたがひれ伏すべきお方イエスが、十字架を負うために、歩み行く。イエスに従って、我々も進もう。この人は救い主イエスなのだから。あなたの前に立ち給う十字架の主なのだから。
祈ります。
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