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2014年4月16日 聖週水曜日 末竹十大牧師

「個別的受け入れ」

マタイによる福音書26章14節〜25節

 

「鉢の中で、手をわたしと共に沈めた者、その者がわたしを引き渡す。」とイエスは言う。弟子たちすべてがイエスと共に鉢に手を沈める。同じ鉢に手を沈める。従って、誰なのかは分からない。分かるのは、イエスを引き渡そうとしている本人だけである。これはイエスの愛である。本人以外には分からない仕方で、予告したのだ。

イエスは、ご自分を引き渡そうとしているのが誰かを分かっていて、このような一般的な言い方をしたのだ。それゆえに、イエスの言葉を聞いた者本人がイエスの言葉を真実に受け入れるか否かが問われることになる。引き渡す者本人がイエスの言葉を聞き、イエスが分かっていると知りながら、引き渡すのである。そこにおいて、引き渡す者の責任は大きくなる。これが、イエスが一般的な言い方をした理由であろう。それゆえに、イエスは引き渡す者を憐れむのである。「人の子がその人を通して引き渡されるその人は、禍だ。彼に良かった。もし、その人が生まれなかったならば。」とイエスは引き渡す者を憐れんで言う。生まれなかったならば、その人に良かったのであると。結局、その人の問題である。その人が、問題である自分を知るか否かが問われている。こうして、イエスの言葉は人間を突き刺すのである。

イエスの嘆きは、引き渡す者に与えられる憐れみである。その者が抱えていかなければならない痛みを知りつつ、イエスは嘆いているのである。この嘆きの言葉を聞いて、心動かされるならば、イエスは十字架に架けられることはなかったであろう。いや、それでも誰かがイエスを十字架に架けたであろう。イエスが十字架に架けられること、死に引き渡されることは、神の必然、神の意志であったのだから。それは今日引き渡す人間ではなく、他の弟子たちであったかも知れない。それでもなお、そのような仮定は意味のないことである。起こったことが現実なのだから。この現実から始めなければならないのだ。

我々は、仮定によって心配する。仮定によって計画する。しかし、現実は仮定通りには行かない。「もし、こうなったら、あのようにしよう」と考えていても、その「もし」は多くの選択肢の中の一つにしか過ぎないのだ。我々人間が考えられることは、少ない。それゆえに、想定外が生じる。当たり前である。人間が想定できるほど、神の世界は単純ではないのだから。神の意志は、我々の想定を越えているのだから。いや、想定できないのが神の意志なのだから。神の意志だけではなく、他者の意志も我々の想定外に動いていくのだ。それゆえに、引き渡す者が考えている通りには行かないのである。外観上、想定通りだと思えても、その内実は違っているということもあるのだ。我々は、仮定から始めてはならない。現実から始めるのである。

この現実は、引き受けなければならない現実である。引き渡す者は、この現実を受け入れられなかったのであろう。何とか、自分の思うように進めたかった。それゆえに、「彼は良いカイロスを探していた」と言われているのである。「良い機会」と訳されているが、これは「良いカイロス」である。カイロスであるから、神が働くときである。我々人間が来たらせるときではない。まして、探しても見つかるものではない。引き渡す者は、神が来たらせるときを受け取るのではなく、自らが探し、そのときを使おうとしているのである。しかし、神が来たらせるときは、神が来たらせるのであり、人間が自分の計画に適合するときを探すことはできないのである。

引き渡す者の探求は、結果的に神に用いられるが、その人は用いられたとは知らない。自分が上手く立ち回ったと考える。しかし、彼が思ったように事は運ばなかった。思うように運ばなかった出来事を彼は受け入れることができず、自らの命を絶つのである。このようになってしまうのは、引き渡す者が神の時、神の意志、神の世界を知らないからである。神の意志に従うことを知らないからである。目の前に起こる出来事を神の出来事、神の意志として受け入れないからである。それゆえに、神の意志によって造られた自らを殺すことにもなるのだ。

「あなたが言っている」と最後にユダに語るイエス。「あなたが言っている」とは、一般論ではなく、個別的な言説である。個別的であるということが重要なのだ。「あなたが言っている」ということが重要なのだ。あなたは、自らが引き渡すことを知っていながら、「あなたが言っている」のだと、イエスは言うのである。「まさかわたしでは」とすべての弟子たちが言ったのに、ユダにだけイエスはこうおっしゃるのである。どうしてなのか。それとも、「あなたが言っている」とはユダだけではなく、すべての弟子たちにも語られているのだろうか。確かに、その場にはすべての弟子たちがいたのだ。すべての弟子たちが聞いていたのだ。それでもなお、イエスはユダの言葉に対して、「あなたが言っている」と言われたのである。「あなたが言っている」と認識しなさいということである。

我々の言葉は、我々が言っているのであるという認識は当たり前だと思う。ところが、神が言わせ給う言葉と、わたしが言う言葉があるのだ。イエスがおっしゃるのは「あなたが言っている」言葉であるということである。あなたの悪しき心から出て来た言葉であるという意味である。イエスがおっしゃったように、我々のうちから悪しき思いが溢れ出てくる。悪しき言葉となって溢れ出てくる。その言葉は、神があなたに語らせているのではない。ユダが自分の思いを知りながら、自分の計画を隠すために言っている言葉である。それゆえに、「あなたが言っている」とイエスは言うのである。他の弟子たちは、自分がイエスを引き渡すのかもしれないという不安の中で語っている。それは仮定である。仮定は現実ではないがゆえに、そのようになるかもしれないし、ならないかもしれない。しかし、ユダは、自分が引き渡したことを知りながら、語る。ユダは、そうなることを知りながら、「まさか、わたしですか」と言う。「あなたが言っている」とは、まさにユダの欺瞞の言葉を指し示しているのである。しかも、他の弟子たちには分からない言葉である。本人にしか分からない言葉である。そこに、イエスの愛がある。イエスは、ユダにその愛を受け取って欲しいのだ。

ここで、ユダが悔い改めて、自らが行ったことを皆の前で告白していたならば、十字架は起こらなかったであろうか。こう考えることは、結局仮定でしかない。現実には、彼が行ったにもかかわらず、自分を誤魔化したのである、皆の前で。その現実を、ユダが引き受けなければならないということを、イエスは教えるのだ、「あなたが言っている」と。

我々は、このユダの姿とイエスの言葉から、我々自身の在り方を聞き取らねばならない。「あなたが言っている」とイエスがわたしに言っているのだと、受け取るとき、わたしはイエスの言葉から現実を始めるであろう。始まっている現実を引き受け、自らを省み、新たに歩み出すことを考えるであろう。

この聖なる週、あなたが自分の計画、自分の思い、自分の悪しき心から語る言葉を捨てて、神の現実から始めるならば、あなたはキリストに従って行くであろう。「あなたが言っている」とおっしゃるイエスの言葉を心して、聞く者でありたい。

祈ります。