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2014年4月17日 聖週木曜日 末竹十大牧師


「幸いである」

ヨハネによる福音書13章1節~17節

 

「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。奴隷は、彼の主より大きくない。また、遣わされた者は、彼を派遣した者より大きくない。もし、このことをあなたがたが知っているなら、あなたがたは幸いである、それをあなたがたが行う場合。」とイエスは言う。ここでイエスが言うのは、幸いである人間とは、奴隷が彼の主より大きくないことを知っている者だということである。知っているならば、彼が命じられたことを行う場合、幸いなのだとイエスは言うのである。何故なら、彼の行いが、「より大きくない者」として行われているからである。そこにこそ、幸いがあるとイエスは言うのだ。つまりは、謙虚さをもって行うことが幸いなのだということであろうか。

しかし、イエスの言葉は謙虚に行いなさいということではない。むしろ、知っていることが大事なことであるとイエスは言うのだ。そこにこそ、幸いがあると言うのだ。知っていることにおいて、幸いがある。知らないならば、幸いはない。その幸いは、行う場合に現れるということである。

それでも、幸いは行う人に感じられることではない。むしろ、幸いかどうか分からないのが普通である。自分が行うこと、そして、自分がより大きくない者だと知っていることを幸いだと感じる人はいないであろう。むしろ、我々は、より大きくあることを幸いだと考えるものである。より強くあること、より尊敬されることが、幸いであると考える。ところが、イエスは言うのだ。より大きくない者がより大きくないことを知っていることが、幸いであると。そのような幸いとはいったい誰が感じるのであろうか。幸いは感じることであると思うのは、自然的人間である。我々は感じることで、幸いを感じられると思っているが、果たしてそうであろうか。

幸いとは、宣言である。「幸いである」と宣言される言葉を聞くことによって、「幸いなのだ」と認識するのである。自分の感覚では「幸いだ」と認識できなくとも、自分よりも大いなる方が「幸いである」と宣言してくださる言葉を聞くならば、「わたしは幸いなのだ」と認識することになるであろう。このような幸いこそ、我々の感覚に左右されないがゆえに、永遠である。我々が感じられなくても、幸いである。我々が認められなくても、幸いである。我々に見えなくとも、幸いである。このような幸いこそ、わたしに依存しないがゆえに、真実に幸いである。

この幸いを生きるには、行うことが先にあるのではなく、知ることが先にある。見ることが先にある。イエスの言葉が、「もし、このことをあなたがたが知っているならば」と始まっているからである。従って、知っていること、見ていること、これが幸いの根拠である。何を知るかと言えば、わたしは奴隷であり、主人より大きくないということである。この認識によって、我々は幸いだと言われるのである。それは、わたしが認識するからではない。イエスがわたしに語っておられる言葉によって、開かれる認識だからである。イエスが語り給うがゆえに、我々の認識は開かれるのである。わたしは主より大きくないということを知るのである。これを知ることは、わたしからではなく、主から来るのである。それゆえに、我々はイエスからこの認識にいたるように導かれ、その心を与えられるのである。それは、自ら謙虚になることではない。主の言によって、謙虚にされるのである。我々が心を入れ替えるのではないのだ。

従って、主の言によって心を与えられた者は、主が命じられる言葉に従う。仕える者としての輪郭を描いて見せたイエスの言葉の中に入ることによって、イエスの輪郭の中にわたしが包まれるのだ。模範と訳されている言葉は、輪郭を描くという意味である。それゆえに、輪郭の中に現実の生を投げ入れることで、輪郭が内実を伴ったものとなるのだ。それは、足を洗うことを行っていれば良いのだということではない。足を洗うという輪郭が示している中に、それぞれの足を洗うという内実を入れていくのである。

誰かの足を洗うということは、相手を必要とすることである。相手がいてこそ、誰かの足を洗うことが起こるのである。だとすれば、その行為自体は、わたしが勝手に行っているのではない。相手がそれを許し、関係を結んでくれることが必要である。それゆえに、イエスが足を洗うことを固辞したペトロにイエスは言うのだ。「もし、わたしがあなたを洗わないならば、あなたは持たないであろう、わたしと共に断片を」と。つまり、一つの断片をイエスと共に持つという関係に入ることが、イエスが足を洗うことだとおっしゃるのだ。これは、互いに共に持つことが必要なのである。洗うことを許す者と洗う者が一つの思いを共に持っている状態が必要なのである。それは、断片と言われているが、持っているものによってつながっているということである。断片を共に持つことで、一つの全体となるということである。一つの行為も、与える者と受ける者がいて行為として成り立つということである。それゆえに、イエスが描いて見せた輪郭、模範とは、ひとりで行うことではなく、誰かと共に行うことである。そのような輪郭の中に、自らが入ること、それが今日、イエスが命じ給うことである。

イエスは、輪郭を描く者として自らを語っておられる。描かれた輪郭は、十字架に至る。足を洗うことが十字架に至るのだ。誰かと一つ思いを共有しながら、与え、受ける関係を生きることが、十字架に至るのである。十字架の主が求め給うことなのである。十字架に至るまでイエスが従い続けた神との関係である。それは、痛みも苦しみも共に持つことである。他者と共に痛み、他者と共に苦しむ。そこにおいて、我々は他者を支え、他者に支えられる関係を生きるであろう。

イエスも神との間にそのような関係を生きておられる。十字架という出来事は、イエスと神が共に持っている一つのものである。神がイエスを引き渡し、イエスが神の与えたものとして引き受ける。ここにおいて、十字架は神の業として、イエスの従順の業として、確立されているのである。

神とイエスが一つの断片を共に持つ。そのとき、断片は断片ではなく、完全なる救いとなる。その中に、入る者を救う神の業となる。イエスが描いてくださった輪郭は、そのような神とイエスの一性を土台としているのである。この土台の上に生きる者は、洗い合わなければならないとは考えない。洗い合えば救われるとも考えない。ただ、命じ給うお方の言葉に従うだけである。そのとき、わたしは主と共に断片を持っているであろう。主が、わたしを用いてくださるであろう。主が、わたしの主となってくださるであろう。わたしは、主の奴隷。主より大きくない者。わたしは遣わされた者。遣わしたお方より大きくない者。主が、遣わしたお方が、わたしを用いてくださる。そう信じる者は、すでに救われている。あなたが為すのではないからである。主の言があなたを動かしているからである。

我々は、今日、共に主の体と血をいただく。主の体と血という断片を主と共に持つ。与え給う主と、受け取るわたしがつながる。主とつながる者が、主に用いられていく。仕える者として生かし給う主に自らを差し出す心で、主の体と血に与ろう。主は、あなたを生かしてくださる。あなたは主の奴隷なのだから。

祈ります。