2014年4月17日 聖週金曜日 末竹十大牧師
「渇き」
ヨハネによる福音書19章17節〜30節
「わたしは渇いている」とイエスは十字架の上で言う。渇いているということは、欠乏である。欠乏しているということは、すべてを使い尽くしている。イエスは使い尽くし、何もなくなっている。何もないということは、究極まで達している。それゆえに、イエスは言う、「終極に達してしまっている」と。イエス自身が終極に達してしまっているということではない。三人称単数だから、「それは終極に達してしまっている」である。イエスの時が終わりに至ったことを語っている。それゆえに「完成された」と訳すこともできる。あるいは「成し遂げられた」とも訳せる。しかし、「成し遂げられた」であれば、成し遂げたイエスの言葉だと思えてくる。イエスは神が来たらせた時が究極に達してしまっているのだと認識したのだ。
「すべては終わった」と言う場合、完成ではなく、計画の頓挫を示していると思える。「完成した」という場合は、すべてが上手く行ったと思える。「終極に達してしまっている」という場合、そこに判断はない。頓挫であろうと完成であろうと、終極に達しているのであり、もはや為すべきことはないということである。この場合、すべてが完成されたかどうかは問題ではないのだ。イエスは、ただ神に命じられたこと、遣わされたことが、終極に達してしまっているのだと言明したのだ。そうであれば、この言葉はこのように理解されなければならない。「あなたのご意志が命じたことが終極に達してしまっている。もはや、わたしが為すべきことはありません。すべてをあなたにお委ねします。」
イエスは、十字架の死に至るまでのご自分のすべてを神に委ねたのだ。もはや、わたしは何を為すであろうかと。神のみがすべてをご自分のものとしてくださると、イエスは神に委ねたのだ。それが「終極に達してしまっている」という言葉である。この言葉が語られる前に、イエスが「わたしは渇いている」とおっしゃったのも当然である。イエスは渇くまですべてを使い尽くしている。こうして、イエスの生涯、いやイエスの地上での命は終極に達してしまっているのだ。
「わたしは渇いている」と語るイエスによって、聖書が満たされると言われている。従って、「わたしは渇いている」が、聖書すなわち神の意志を満たすというのである。聖書を満たす言葉が「渇く」である。イエスの欠乏、使い尽くしが満たす。イエスの渇き、イエスの欠乏が、満たす。イエスから聖書へと満ちるものが移行する。「わたしは渇いている」と満たされる聖書。渇いている者が満たす。それが十字架である。
十字架は究極的渇きである。究極的渇きが神の言を満たす。満たされる神の言は、渇きを必要としている。渇くことで満たされるのだと告げる。渇くことで潤すのだと告げる。十字架が潤す我々の渇き。イエスの渇きは、我々の渇き。渇いているわたしがキリストの十字架で満たされる。
我々の罪は、我々の渇きである。我々の渇きは、渇くものを求める。この世の潤いを求める。イエスは、この世の潤いを与えはしない。この世にあって、渇くイエスが満たすのだから、この世の渇きは満たされない。満たされるのは神の意志、神の言、神の業である。この世で渇いている我々を満たすのは、この世での潤いではない。十字架である。この世では渇きと見える十字架である。この世で欠乏している十字架である。十字架が満たし、潤すのはいったい何か。
この世で満たされない者が、あの世で満たされるということだろうか。そうであれば、この世の苦難を耐え忍べば、あの世で幸いになるということになる。そのような先延ばしにされた潤い、幸いを十字架がもたらすのだろうか。いや、十字架は、この世で渇きのうちにありながらも生きて行く力を与えるのだ。この世で生き難さを抱えながらも生きて行く力を与えるのだ。終極に達している十字架が与える力は、この世が与えるものではない。この世が与えられるのは、終極まで達していない力である。十字架が与えるのは、終極まで達してしまっている力である。それは、我々の力ではない。我々は終極まで達してはいないからである。
我々は、終極以前の者である。イエスだけが終極まで達してしまっている者である。十字架だけが終極を生きているのである。それゆえに、十字架が与えるのは、この世の潤いではない。この世の幸いではない。しかし、あの世の幸い、あの世の潤いでもない。そのような時間軸を越えた潤いであり、幸いである。
終極まで達してしまっている救いは、時間軸を無効にしている。時間軸を越えている。従って、十字架が与えるものは、時間を超えている。それは今与えられ、今満たされるものである。十字架は、今という現在に立っているのだ。「渇いている」わたしに与えられる現在の救い。それが十字架なのだ。
それは、時間を超えているのだから、現在であるが、将来においても現在している。現在している救いは、イエスの十字架が現在のわたしに関わっているということである。従って、我々は現在十字架によって救われていることを生きることができるのだ。将来の救いを生きるのではない。将来の復活を生きるのではない。将来の潤いを満たされるのではない。現在を生きる。現在を復活する。現在の潤いを満たされる。復活は現在であり、今生きることであり、今満たされる神の意志なのである。イエスが「渇いている」という現在において、神の意志である聖書が満たされたように。
十字架が現在のわたしの渇きを潤し、現在のわたしの欠乏を満たし、現在のわたしのうえに神の意志を満たす。十字架によって、聖書が満たされる。これこそが、我々の救いである。渇いている我々の満たしである。満たされる我々は、イエスが渇いている現在に、自らの欠乏、自らの渇きを見るであろう。そのとき、我々はイエスの十字架の渇きによって、満たされる。イエスが渇いたがゆえに、満たされる。神の意志は、我々が渇いていることを知ることにある。神の言は、我々の渇きをこの世の渇きから、魂の渇きの自覚へと導くのだ。この自覚のうちに、我々は自らの罪が無効化されている十字架を仰ぐことができるのである。この自覚のうちに、我々の渇き、欠乏、罪が聖書によって満たされることを受け取るのだ。渇きの自覚、罪の自覚があってこそ、我々はイエスの渇きによって満たされる者とされる。神の意志が満たされた十字架によって満たされる者とされる。
あなたは渇いている自分自身を知らなければならない。渇いている魂を知らなければならない。魂の渇きが満たされていることを知らなければならない。イエスの渇きはあなたの渇き。イエスの痛みはあなたの痛み。イエスの十字架はあなたの十字架。あなた自身の十字架が現在の渇きの中に立っていることを知るのだ。そのとき、我々は十字架によって、罪赦され、潤され、満たされるわたしを知るであろう。イエスと共に、現在を復活する命を知るであろう。十字架の上で、あなたが渇いているのだ。渇くべきはあなたなのだ。イエスではなかったはずなのだ。イエスは、我々の渇きを渇き、我々の痛みを痛み、我々の罪を十字架につけたのだ。あなたが、神の意志に従って生きて行くために。イエスが満たし給う神の言を聞くあなたが満たされる。イエスの渇きによって満たされた神の言があなたを満たすのだ。十字架の前にひれ伏し、渇くイエスからいただこう、終極に達してしまっている救いを。あなたのための十字架があなたを満たすのだから。
祈ります。
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