2014年4月20日 末竹十大牧師
「出会い」
マタイによる福音書28章1節~10節
「彼の弟子たちに伝えるために、彼女らは走った。すると見よ、イエスが彼女らに出会った。」と言われている。イエスが女たちに出会い、彼女らを迎えたとマタイは言うのだ。イエスは出会うために現れた。そして、「おはよう」つまり「喜べ」と言われたのである。恐れと大きな喜びをもって、走り出したと記されている女たちに、何故「喜べ」と言うのだろうか。彼らは大きな喜びと共に歩いているのに。彼女らの道を塞ぐように、イエスは道の上に現れ、出会ったのである。そして、天使の言を繰り返す。何故に、イエスは天使と同じ言を繰り返すのだろうか。天使は、言うべきことをイエスと打ち合わせてはいなかったのか。何故に、イエスはあえて、女たちに出会わなければならなかったのか。
女たちは恐れと喜びの両方を持っていた。恐れと喜びは両立しない。喜んでいる者は恐れない。恐れている者は喜べない。どちらか一方であるはずなのだ。恐れながらも大いなる喜びで一杯になっていると、新共同訳は訳している。この場合、喜びが大きいのだから、恐れは小さいと思えてしまう。ところが、恐れと喜びを一緒に持っているということは、恐れと喜びに振り回されているということであり、どっちつかずの状態にあるということである。
イエスの体がないことによって、彼女たちの期待は裏切られた。あるはずの体がない。体がない理由を、天使は「彼は起こされた」と言った。起こされた。復活した。これはいったいどうしたことなのか。先ほど起こった地震で、どこかに動いてしまったのだろうか。あの大きな岩が動かされて、墓が開かれているのだから。復活したイエスが大きな岩を動かしたのだろうか。いや、天使が岩の上に座っていたではないか。天使が動かしたのだ。では、イエスは開いた墓から、出て行ったのだろうか。体がないということは、生き返ったのだろうか。あれほどの苦しみを経験し、息を神に引き渡したイエスが、息を吹き返したのか。女たちは、恐れと喜びの間を揺れ動いている。イエスの体がない。それは恐れを起こした。死んだイエスが生き返ったと天使が告げる。それは喜びを与えた。死んではいなかったのだと。しかし、どこに行ったのだろうか。天使はガリラヤに弟子たちを先導すると言っていた。伝えなければならないと、彼女らは走ったのだ。彼女らは走る。彼女らは急いている。何故、急くことがあるのか。イエスがどこかに行ってしまうと思うからか。弟子たちがイエスを見ることができるように、早く行かなければと急いたのだろうか。恐れと喜びが錯綜する中、走っていく女たちを押しとどめるイエス。イエスが女たちに出会ったのだ。イエスが女たちに出会いたいと、彼女らを迎えたのだ。イエスは何故に、出迎えたのか。女たちを走らせないためなのか。
復活の朝、すべては混乱している。女たちは混乱している。恐れと喜びに満たされている。恐れに揺れ、喜びに揺れる。彼女らが揺れ動いている道の途中で、イエスは彼女らに出会うのだ。イエスから、出迎えるのだ。彼女らの揺れを止めるために、イエスから出会う。イエスは、女たちに出会いたいと道に立っている。女たちは道のなかばで、立ち止まる。こうして、最初のイエスとの出会いが生じた。
恐れと喜びに揺れ動きながらも、天使の言に従って、弟子たちのところへと道を急いでいた女たち。神の言に従う道のなかばで、イエスが出迎える。イエスは、女たちに出会い、迎える。神の言に従う中で、我々はイエスに出会う。いや、イエスが我々に出会い給う。我々の恐れと喜びの中で、イエスが出会い給う。我々が恐れている中に、喜んでいる中に、揺れ動いている中で、イエスは出会い給う。我々がどっちつかずの状態であろうとも、ただ出会い給う。
イエスは、女たちをどこに導こうとしているのだろうか。出会いとは、約束して合うこととは違う。偶然にも出会うという感じがする。しかし、イエスの方は出会いたいと願い、出会ってくださったのだ。偶然に出会ったのではない。イエスの意志によって出会ったのだ。女たちは、イエスに出会いたいと思って走っていたのではない。ただ、天使の知らせを弟子たちに伝えようと走ったのだ。イエスに出会うことで、彼女らは如何に変えられたのか。イエスが復活して、出会ってくださったという経験を土台として、伝えるべき天使の言を、真実に伝える者とされたのである。
イエスが天使の言を繰り返したのは、女たちが神の言を確信を持って、弟子たちに伝えるためである。女たちに伝える力を与えるためである。混乱の中で、訳が分からないけれど、天使が現れてこう言ったのだと、弟子たちに告げても、女たちに確信がないのだから、伝わるはずがない。弟子たちを動かす力にはなり得ない。イエスは、女たちに力を与えるために、出会い給うたのだ。イエスとの出会いによって、女たちが語る言には力が宿ったのだ。確信が宿ったのだ。イエスは、女たちを弟子たちへの伝言者とするために、出会ってくださったのだ。イエスとの出会いによって、女たちは自らの行動を揺れ動くことなく、行う者とされたのだ。
我々人間は、揺れ動くものである。確信を持っていなければ、揺れ動くものである。本当に、わたしは天使に出会ったのだろうか。わたしの空耳ではなかったのか。恐れと喜びに振り回されて、幻覚を見たのではないのか。幻聴だったのではないのかと思うものである。しかし、イエスに出会ったゆえに、女たちは自らの感覚に左右されているのではないと確信したのだ。確かに、イエスが復活したのだと確信したのだ。弟子たちに伝える力をイエスから受けたのだ。
あなたがたの中には、イエスに出会っていないと思っている人がいるかも知れない。しかし、イエスに出会っているのだ。聖書の言葉を通して。女たちの出来事を通して。力を得た人たちの証言を通して。我々がイエスと出会うのは、言による出会いである。イエスが語る言を通して、我々はイエスに出会っているのだ。女たちは、イエスから言を聞くために、イエスに出会っていただいたのだ。それゆえに、イエスは天使の言を繰り返すのである、天使の言がイエスの言である確信を与えるために。イエスを見たことよりもイエスの言が女たちを力づけたのだ。イエスに出会うのは、イエスの言葉を通してである。我々が、視覚的に見ることではない。我々の視覚は感覚であり、幻聴のように、移ろいゆくもの。そのような感覚に頼っていても、真実にイエスに出会っているわけではない。イエスに出会ったとき、聞いた言があなたを生かす。女たちを力づけたように。
神の言が我々を生かすのだ。力を与えるのだ。何故なら、神の言は出来事を起こす言だからである。神の言によって、我々は自らの感覚を越えた出来事に出会っているのである。イエスの復活も、言によって出会い給うお方の出来事なのである。あなたをご自身の言に信頼する者とするために語られているイエスの言を心して聞こう。聖書の言葉の中で、イエスはあなたに出会い給う。イエスの言が、あなたに力を与え給う。イエスと言とは一つなのだから。
今日、洗礼を受ける三浦敏生兄弟も、言によって導かれた。神の言によって洗礼への思いを起こされた。神の言は、出来事を起こすのである。あなたが思ってもいないときに、イエスは出会い給う。言をもって出会い給う。
毎週の礼拝において、イエスは言のうちに、我々に出会い給うのだ。その言は、パンとぶどう酒の形でも与えられる。「これはあなたがたのために与えるわたしの体である」、「これは罪の赦しのため、あなたがたと多くの人々のために流すわたしの血における新しい契約である。」と。イエスの言を聞くとき、イエスはそこにいまして、我々に出会い給う。イエスの言こそ、出会いの言である。我々に力を与える言である。パンとぶどう酒を通して、語り給うイエスの言が、我々のうちに入来たる。イエスが、我々のうちに生き給う。復活の主が、あなたに出会い給うのだ。あなたに出会いたいと願っておられる主の言を聞こう。主はあなたを用いられる。主の言を伝えるために、用いられる。キリストの体と血に与り、遣わされて行こう。キリストの復活の力のうちに。神の言を伝えるために。イースターおめでとうございます。
祈ります。
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