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2014年4月27日 末竹十大牧師


「恐れと喜びの向こう」

ヨハネによる福音書20章19節〜23節

 

「もし、誰かの罪たちを、あなたがたが手放すなら、それらは彼らに手放されてしまっている。もし、誰かのものを、あなたがたがつかむなら、それらはつかまれてしまっている。」とイエスは言う。あなたがたが手放す罪たちがあり、つかむ罪たちがある。「あなたがた」がその罪たちを手放したり、つかんだりするとイエスは言う。神が罪をつかむのではないのか。罪を手放す、つまり赦すのは神なのではないのか。それなのに、イエスは「あなたがた」が手放し、つかむと言う。これはどうしてなのだろうか。イエスは、「あなたがた」である弟子たちに何を求めているのだろうか。

この言葉は、弟子たちに罪を赦す権威を与え、罪をつかむ権威を与えたイエスの言であると理解されている。しかし、そうであろうか。イエスは、この言を語る前に、「あなたがたに平和」と二度言っているのだ。「あなたがたに平和」、ギリシア語で「エイレネー、ヒュミーン」とイエスは言ったのだ。これはヘブライ語では「シャローム、ベケム」である。「シャローム、あなたがたに」とイエスは言ったのだ。「シャローム」とは欠けのない完全な状態である。シャロームである神に包まれている状態が、エイレネー・ヒュミーンである。とすると、「あなたがた」である弟子たちが神のシャロームに包まれているとイエスは語ったのだ。そうであれば、弟子たちは、完全なる状態に入れられているというイエスの宣言ではないか。それゆえに、手放すこととつかむことが語られているのである。誰かの罪たちは、弟子たちによって、つかまれもし、手放されもするが、それはつかまれてしまっているのであり、手放されてしまっているのである。とイエスは言うのだ。そのような力が弟子たちに与えられるということではなく、弟子たちの確認を語っている言ではないだろうか。弟子たちが、手放すとき、手放されてしまっている罪。つかむとき、つかまれてしまっている罪。それらをつかむか、手放すかは、弟子たちにかかっている。弟子たちの状態が、完全であれば、弟子たちはつかむことも手放すこともしないであろう、自分たちのためには。むしろ、神にすべてを委ねるであろう。弟子たちが神のシャロームに包まれているならば、彼らは誰かの罪たちをつかんだり、手放したりということにはならないのである。つかみ、手放す場合には、誰かの罪に弟子たちが捕らわれているからである。彼らが罪に捕らわれていないならば、彼らは完全な状態である。神のシャロームに入れられている状態なのである。イエスは、このシャロームの状態に入って欲しいのである。

では、如何にして、シャロームの状態に入るのであろうか。イエスが「平和、あなたがたに」と言う言を聞くことにおいてである。イエスの言を聞くことにおいて、我々が「平和」シャロームの状態に入れられていることを受け取ることができるのである。シャロームは、神の事柄だからである。我々が平和になることも、平和を作ることもできないのである。我々人間は、誰かを恨み、誰かの罪たちをしっかりとつかんでいる。誰かの罪たちを手放すことなどないのである。弟子たちも、イエスを十字架に架けた人たちを恨んでいたであろう。彼らの罪たちを赦されざるものと考えていたであろう。しかし、自分たちがやつらに捕まることを恐れて隠れていた。そのような弟子たちにイエスは言う、「平和、あなたがたに」と。

弟子たちは、イエスが現れる前は、恐れていた。イエスが現れると、喜んだ。イエスの死によって、恐れが生じたが、イエスが生きていることで、喜びが生じた。恐れと喜びは、イエスの死と生に関わっている。死を恐れる。生を喜ぶ。これは普通の人間である。信仰などとは関わりなく、人間は死を恐れ、生を喜ぶものである。自然的人間は、そのように生きている。イエスが生きていることで喜びが生じるとすれば、それはイエスの生に依存している。イエスが死んだことによって恐れが生じるとすれば、それはイエスの死に依存している。イエスの死と生に弟子たちは依存している。イエスの死と生に振り回されている。そのような弟子たちに、イエスは言う。「平和、あなたがたに」シャローム・ベケムと。神のシャロームがあなたがたを包んでいると、イエスは言うのだ。この言は、振り回されている弟子たちを、神のシャロームの中に導き入れる。神のシャロームの中に、すべてがある。完全な形ですべてがある。それゆえに、シャロームの中に入れられた弟子たちには、何も必要ではない。イエスを十字架につけた者たちの罪をつかみ続ける必要はない。十字架と死のあと、復活したイエスを喜ぶ弟子たちが、イエスを十字架につけた誰かを赦す必要もない。彼らは、イエスの十字架の意味をすでに持っているからである。彼ら自身が、赦されてしまっているからである。

弟子たちが手放す必要もなく、つかむ必要もない生は、平和の生である。彼らが揺れ動くことなく、ただ神に信頼して生きることができる生である。誰も弟子たちを傷つけないし、誰も弟子たちを慰めない。ただ神のみが、弟子たちの生のすべてである。彼らが神のシャロームの中に入っているからである。彼ら弟子たちは、神のシャロームの中に入って、誰の罪も手放さないし、誰の罪もつかまない生を生きるのである。彼らが誰かの罪を赦すのではない。神が彼らの罪を赦すのだ。誰かの罪たちも、神がつかむのである。そのようなお方が神であることを知ること、それがシャロームの生である。そのような生に入れられた者は、イエスの死と生に根源的に規定され、我々の感覚に依存している恐れと喜びはもはやないのである。恐れと喜びの向こうに、神のシャロームがある。神のシャロームこそ、我々が恐れと喜びを越えて行く力である。

我々は、常に捕らわれている。罪に捕らわれている。それをつかもうと手放そうと、罪に捕らわれている。罪のことばかりを考えているからである。むしろ、平和に目を注ぐべきである。神のシャロームの中でこそ、我々は罪から解放されている。つかむ必要もなく、手放す必要もない。それらは、神によって手放され、つかまれてしまっているからである。我々がつかむ前に、神がつかんでいる。我々が手放す前に、神が手放している。これを確認するのが、弟子たちの手放し、つかむ行為である。神によって行われたものを再確認するのが、我々の信仰なのである。神のシャロームのうちに入れられた者は、自らの罪に捕らわれることなく、誰かの罪を手放すことができる。誰かの罪をつかむことができる。

信仰を与えられ、神のシャロームに入れられた者は、神がすでに赦し、つかんでいる罪を指し示すことができるのである。自らのためにではなく、その人のために、指し示すことができるのである。罪を赦すのは、わたしではない。罪をつかむのも、わたしではない。神が完了している赦しとつかみをわたしが示しているにすぎない。そのとき、我々は罪に捕らわれることなく、罪からの解放が完了してしまっていることを告げることができる。そのために、イエスは弟子たちを派遣すると言うのである。自らが、イエスによって、平和を宣言された者として、神のシャロームの完成を宣べ伝える者とされるのである。

イエスによる派遣に与る者は、イエスが父から派遣されたと同じようであるとイエスは言う。父の許では、イエスの十字架はすでに完成している。その完成を告げ知らせるために、イエスは派遣された。この世界に神の業を明らかに示すために、イエスは派遣されたのだ。イエスが十字架に架かることも、イエスが死者たちの中から起こされることも、神のシャロームの中では、すでに完成している。この完成を生き、指し示すために、イエスは父から派遣されたのである。この派遣と同じように、イエスは弟子たちを派遣する。彼らが何かを完成するのではない。すでに完成されているものを指し示すのだ。彼らの恐れと喜びの向こうに、すでに救いは完成している。我々は恐れと喜びに振り回される必要はない。神の業は我々の感情を越えた向こう岸にあるのだ。この救いを宣べ伝えるために、遣わされて行こう、神のシャロームの中を。

  祈ります。