2014年5月4日 末竹十大牧師
「起こされる信仰」
ヨハネによる福音書20章24節〜29節
「わたしたちは見てしまっている、主を」とトマスに弟子たちが言う。「見てしまっている」と完了形で言う。見ていることが完了し、継続しているのだと言う。トマス以外の弟子たちは、見てしまっている状態にあり続けているということである。一度、主を見たことが継続している状態に入れられている弟子たち。しかし、そのとき共にいなかったトマスは完了していない。彼に継続されているのは、見てしまっていない状態である。つまり、トマスはイエスの死の状態に留まっているのである。それゆえに、彼が弟子たちに言う言葉は当然である。「もし、わたしが彼の手の内に、釘の場所を見ないなら、そして、釘の場所へわたしの指を入れないなら、そして、わたしの手を彼の脇へ入れないなら、決してわたしは信じない。」と。
ここでトマスが「信じない」と言っているのは、イエスの復活を信じないということだけではなく、弟子たちの言う「わたしたちは見てしまっている、主を」という言葉を信じないということであろう。トマスがイエスの死の状態に留まっているからである。死の状態に留まるということは、すべてを否定する状態にあることである。すべての否定、すべての拒否、すべての絶望。それが死である。弟子たちの間には、イエスの生と死が混在している。イエスの生を見てしまっている弟子たちと、死の状態に留まっているトマス。生と死が混在し、相互理解が閉ざされている弟子たち。八日目に、この弟子たちの真ん中に立ち、イエスは「シャローム、あなたがたに」と言う。トマスだけが混乱しているのではない。弟子たちという集団、共同体が混乱している。生と死に分裂している。その真ん中に立つイエス。「シャローム、あなたがたに」と宣言するイエス。一人ひとりにではなく「あなたがた」にシャロームがあるのだと言うイエス。あなたがたをシャロームが包むのだと言うイエス。あなたがたのうちにシャロームがあるのだと言う復活者。ご自身が復活であるお方が言うのだ。分裂が生じている弟子たちの真ん中に神のシャロームがあるのだと。それは、たとえ分裂し、混乱している状態にあろうとも、我々の真ん中に立ち給う主によって、シャロームがあるのだということである。
トマスは、弟子たちの言葉を信じないが、信じるためには自分の手や指による感覚が必要なのだと言う。これは、彼自身が個人としてイエスの生を確認することである。そこにおいては、トマスがあなたがたになることはない。ただ、トマスが確認するだけである。しかし、イエスが今真ん中に立っていることによって、トマスだけではなく、弟子たち全体がイエスの臨在に与っているのだ。彼らが視覚的に、触覚的に、イエスを確認するのではない。集団として、共同体として、確認する。いや、彼らが確認するのではない。イエスが彼らの真ん中に立つのだ。イエスがご自身のすべてを彼らに与えるのだ。こうして、彼らは分裂していても、与え給うお方によって、一つとされている。他の弟子たちへの不信、不満にも関わらず、トマスは彼らのうちに入れられている。トマスは、イエスの臨在ゆえに、あなたがたに入れられているのである。
イエスはトマスに勧める。「あなたの指をここにもってきて、わたしの手を見なさい。あなたの手を持ってきて、わたしの脇へ入れなさい。不信仰者として生じないで、むしろ信仰者として。」とイエスは言う。トマスに信仰者として生じることを願うイエス。イエスは、ただトマスだけが信仰者として生じることを願っているのだろうか。むしろ、あなたがたとしての信仰を求めているのではないのか。先に見てしまっている弟子たちも同じように信仰者として生じて欲しいのである。それは起こされる信仰を生きて欲しいということである。自分の感覚で信じるのではなく、神が起こし給う信仰によって生きて欲しいということである。
トマスが、見て信じたとしたら、弟子たちも見て信じた。そのような弟子たちにイエスは言うのだ。「あなたがわたしを見てしまっているから、あなたが信じてしまっているのか。幸いである、見ないで信じている者たちは。」と。トマスだけが言われているのではない。見て信じることは、見るという人間の側の感覚に依存している信仰である。それは信仰とは言わないのだ。幸いであるのは、自らの感覚に依存しない信仰者であるとイエスは言うのだ。そのような信仰は、我々の見ること、触れることに依存しないのだから、見てしまっている状態とは違う。むしろ、信じてしまっている状態である。この状態は、神が起こし給う信仰を生きている状態である。人間の側の確認作業に依存しない信仰こそ、真実に信仰である。
「幸いである」とイエスは言う。「幸いである」ということは、自らの力によって幸いになるのではない。自らの感覚によって幸いになるのではない。自らの力や感覚に依存しない者こそ、幸いなのである。何故なら、幸いは神が与え給うことを受け入れることだからである。幸いは、自分で幸いになることではないからである。神が我々を幸いにしたいと願っておられる意志を受け取ることこそが幸いである。そのような幸いは、我々から生じないがゆえに、幸いである。我々から生じるならば、我々から消し去ることもできる。しかし、神から生じるならば、消し去ることはできない。揺るがない信仰とは、神が起こし給う信仰である。
トマスに信仰者になって欲しいとイエスが真ん中に立ち給うがゆえに、トマスは「わたしの主、わたしの神」と叫ぶのである。つまり、わたしはわたしの主人ではない。あなたがわたしの主。わたしは神ではない。あなたがわたしの神。あなたがわたしに信仰者になって欲しいと現れてくださるがゆえに、わたしは信じるのだとの告白であろう。その告白に対して、イエスがさらに言う言は、トマスを責めているのではないのだ。トマスの信仰を純化するために言うのだ。「見ていないで信じている者たちは幸いである」と。弟子たちすべてが見てしまっていることにこだわっているがゆえに、イエスは言うのだ。彼らが自らの感覚によって、触覚によって、イエスの生を信じると思い込んでいることに否を突きつけるのだ。あなたがたが信じるのは、見ないで信じることであると。見ることに依存しない信仰であると。あなたの感覚に依存しない信仰こそ幸いなのだ。神が与え給う信仰なのだと、イエスは言うのだ。ここにおいて、彼ら弟子たちは「シャローム、あなたがたに」という言の意味を理解させられるのである。
シャロームは神が与え、神が包むもの。人間が生み出すものではない。人間が感覚的に平和を感じるということではない。人間が仲良しだと感じて、平和を感じるのでもない。イエスが宣言することなのだ。「シャローム、あなたがたに」と。この宣言を共に聞く者たちの真ん中に、イエスが立つことなのである。イエスが臨在することなのである。これが真実の平和であり、神のシャロームなのである。イエスご自身が、神のシャロームの中に入っている。それゆえに、十字架に死んでもなお、生きている。シャロームに入っているのだから、欠けがない生である。トマスが留まっていた否定的死の状態。弟子たちが留まっていた見てしまっている生の状態。イエスはこれを超えている。彼らの感覚を越えている。生と死の向こうに、恐れと喜びの向こうに、感覚を超えた生があるのだ。感覚に振り回されず、仲良し感覚に振り回されずに、ただ神の主体のなかで、神のシャロームの中で生きる。これが、イエスが今日、トマスと弟子たちに与えるものである。見ないで信じる者たちの幸いである。
我々が今日、共にいただく聖餐は、見ないで信じる者を生じさせる。イエスの言を聞くことによって、信仰が起こされる。パンとぶどう酒が、イエスの言と共に与えられ、イエスが臨在し給う。イエスの言こそ、我々を信じる者として造る神の力である。感謝して受け、起こされる信仰を生きて行こう。あなたの神の意志に従う信仰を生きて行こう。あなたがたは幸いな者たちなのだ。イエスの言によって、信仰を与えられているのだから。
祈ります。
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