2014年5月11日 末竹十大牧師
「キリストの羊」
ヨハネによる福音書14章1節〜16節
「良い羊飼いとして、わたしはある。わたしはわたしのものたちを知っている。わたしのものたちもわたしを知っている。」とイエスは言う。「良い羊飼い」とは、自分のものである羊たちを知っていることであり、自分のものである羊たちも自分を知っていることであると言うのだ。この「知る」という言葉は、ギノースコーというギリシア語で、経験を通して知ることを表す言葉である。単なる知識ではなく、自分のものとしての経験を通して知ることである。従って、良い羊飼いは、羊たちを守る経験を通して、自分のものたちを知るのである。守りの経験がなければ、羊飼いは良い羊飼いにはならない。羊たちを襲うものから守る経験を通して、羊たちの性格や反応などを知っていくことが、羊飼いが羊たちを知ることである。反対に、羊たちが羊飼いを知ることは、守られた経験を通して知ることである。この羊飼いがわたしを守ってくれる存在だと知ることである。
このような羊飼いと羊の関係を、キリストとキリスト者の関係として語っているのが、今日のイエスの言葉である。この言葉において、イエスは「良い羊飼い」であるばかりではなく、「羊の門」であるとも言っている。これはどういうことであろうか。羊飼いは羊の門ではない。羊の門が羊飼いになることはない。しかし、イエスは羊の門であり、羊飼いであると言う。この羊の門と羊飼いとの関係の中に、羊たちがいるのである。それは、いかなる関係なのだろうか。
羊の門は、羊たちが通って入る門である。そこから入って、牧草を見つける門である。羊の門であるということは、羊たちは、イエスを通って、牧草地に入るということである。その門が、羊飼いであるということは、門が羊を守り、牧草に与らせるように、羊飼いは羊を守り、牧草に与らせる。良い羊飼いとは羊の門のように、羊たちを牧草地に導く門のようなものだと言うのである。門が、羊飼いのように歩き回り、羊たちを受け入れて行く。イエスを通る羊は、門を入るように、牧草にありつく。このイエスを通るということが、イエスの羊、キリストの羊であることなのである。このような羊の選択は、どこで起こるのだろうか。誰が選択するのだろうか。羊か、羊飼いか、羊の門か。
一般的羊飼いは自分が守るべき羊を委ねられている。最初から、この羊を養いなさいと羊の持ち主から委ねられている。それゆえに、最初から羊を知っているのが羊飼いである。ところが、羊飼いであるイエスが門のように、歩き回り、この囲いにいない羊を集めると言っている。その場合、いまだ委ねられているか否かが分からない羊がいるということである。羊自身も、囲いにいないのだから、この羊飼いの羊なのだと自分を認識しているわけではない。羊の門のように羊飼いがやって来たとき、必然的にその羊飼いを通る羊がいるのである。自己認識は最初からあるわけではなく、そのとき与えられるのである。羊飼いも自分の羊がどこにいるか知っているわけではない。歩き回っているうちに、羊と羊飼いは出会う。そこには必然の出会いがあり、必然が結びつける関係が見えるのである。羊の門である羊飼いに、自分との関係を見つける羊。この羊は、羊飼いとの関係をその出会いのときに、見出す。この相互に与えられる関係が羊と羊飼いの関係であり、羊の門としての羊飼いの道行きである。自らの命を羊のために捨てる道行きである。
この関係は、イエスと父との関係と同じだと言われている。父と子との関係は、必然的結びつきによって、失われないものとしてあるのだ。それゆえに、父がイエスを知り、イエスが父を知るということと同じ関係が、羊とキリストとの関係なのである。しかし、単に父であり、子であることを知るというのは、経験によって知る必要はないのではないか。ところが、イエスの父との関係は、知識的に知る関係ではないのである。経験的に知る関係である。そうであれば、父が子を経験的に知るということは、血縁的に知ることではない。必然的に知るのだ。それは経験を通して、新たに父と子の関係に入ることである。そして、羊とキリストとの関係も同じように、新たに経験的に知ることなのである。
羊が経験的に羊飼いを知るのは、命をかけて自分を守ってくれる羊飼いを知ることである。父と子の関係も、命をかけて子を守る父を知ることである。イエスの父は、命を賭けてイエスを守ったのだろうか。十字架の上に見捨てたのではないのか。それなのに、命を賭けて、イエスを守ったと言えるのだろうか。いや、父はイエスに命を与えたのだ。十字架に死んだイエスを、自らの命を与えて、新たに父と子の関係を創造したのだ。それゆえに、ここで語っているイエスは、キリストとして語っている。十字架を通ったイエスとして語っているのだ。このような関係を生きているキリストが、自分の羊を経験的に知ってしまっていると言っているのだ。イエスが父の命に与ったように、キリストの羊たちは、キリストの命に与るのだ。これが、キリストの羊たちなのである。
イエスは羊の門として、羊たちを探し回る羊飼いである。命の門として、羊たちを探し求める羊飼いである。牧草を与える門として、羊たちを迎えるキリスト。このお方が十字架の上に置き給うた命に、父が新たな命を与えたように、このお方の門を通る羊たちは、新たな命に与る。そこにおいて、羊とキリストとの関係が生じるのである。羊と羊飼いとしての関係が生じるのである。羊と羊の門としての関係が生じるのである。この関係を生じさせるのは、父の命である。十字架において生じた父の命である。新しい命である。復活の命である。死を通った命である。関係を開く命である。
父が羊たちと羊飼い、羊たちと羊の門の要におられる。羊たちは父の命に与る羊飼いの羊である。羊飼いは父の命に与る羊たちの羊飼いである。この相互的関係が、羊と羊飼い、羊と羊の門の間にある父の命である。復活の命である。「わたしはある」という父の命である。
羊たちは「わたしはある」という父の命に与るために、羊の門を通る。それは、自分の十字架を取ることである。羊は、自分の十字架を取って、羊飼いに従う。羊飼いの羊たちは、自分の十字架を取る羊たちである。負わせられるものを負う羊たちである。負わせられるものを負うことができるのは、キリストの羊たちである。キリストが十字架を負われたように、羊たちも自分の十字架を負うからである。
羊たちは、十字架から聞こえてくる声を聞く。十字架の言を聞く。十字架の言が呼んでいると聞く。そのとき、羊たちは自分のために命を投げ出してくださった羊飼いを知ってしまっているのだ。羊飼いも、自分が投げ出した命を受け取った羊を知ってしまっているのだ。これは、必然である。どのようにしても、この関係を羊が作ることはできない。羊飼いも作り得ない。ただ父のみが造り給う。18節でキリストが言う如く、「この掟を、わたしは受けた、わたしの父から」と言われる掟に従って、造り出される関係なのである。命を捨て、命を受けるという掟。これが、父が与えた掟である。この掟に従って、キリストは命を捨て、受ける。捨てた命が、キリストの羊を造り出す。受けた命が、キリストの羊を受ける。父の命が、キリストの命。キリストの羊は、キリストの命に与る。キリストの命が、キリストの羊を造る。こうして、キリストの羊は自分の十字架を負って、キリストに従うのである。
あなたがたは、このような関係に入れられているのだ。あなたがたはキリストの羊である。キリストの声を聞き、キリストの門を入り、キリストの羊として命を得る。キリストの羊たちは、キリストのもの。キリストの命の実。キリストの捨てた命が、あなたがた羊を生かす。あなたのうちにキリストの命が芽生えている。あなたのうちにキリストの形が作られていく。キリストに従って、十字架を負い、命に与ろう。あなたのために命を捨てた羊飼いのように。あなたはキリストの羊。キリストが投げ出してくださった命を受け取ったのだから。
祈ります。
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