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2014年5月18日 末竹十大牧師


「道を行く道」

ヨハネによる福音書14章1節〜14節

 

「わたしが行くところへの道をあなたがたは見ている。」とイエスは言う。それに対して、トマスは、その道が分からないと質問する。「その道をどのようにしてわたしたちが見ることができるでしょうか。」と。新共同訳で「分かる」とか「知る」と訳されている言葉は、「見る」という意味の言葉である。視覚的に見て知るという意味が込められている言葉である。この後のイエスの言葉では「知る」と訳されている言葉は「認識する」である。そして、「父を見ている」と訳されている言葉が「見る」という意味での「知る」と同根の言葉である。福音書記者ヨハネが、この箇所のイエスとトマスとのやり取りにおいて、使っている「知る」という言葉は「見る」を主題として使われている。さらにイエスは、ご自身が「父」と一であることを「わたしを見る者は、父を見てしまっている」と言うのである。イエスとトマスのやり取りには、「見る」ことに関わるオイダ、ホラオーが使われながら、認識するという意味での「知る」が使われている。見ることで、認識するということである。

トマスは、どのようにして、その道を見ることができるかとイエスに質問したのである。トマスの質問は、イエスが行く道がどこかにあると思っている質問である。ところが、イエスは言うのだ。「わたしが道である。そして、真理。そして、命。」と。「道」が「真理」であり、「命」であると言う。イエスがそのものであると言う。これは矛盾しているようである。イエスが行く道がイエスであると言うのだから、道が道を行くと言うのだから。道は道であり、道を行く人とは別である。別でなければ道を行くことはできない。しかし、イエスはご自分が道であり、その道を行くのだと言う。これはどういうことであろうか。イエスが行く道はイエスを見れば見えるということである。つまり、道はどこかにあるのではなく、イエスご自身にあるのだ。イエスご自身が道である。イエスが行くということが道である。道が道を行くことが道であると、イエスは言うのだ。イエス自身が道を造っていくということのようであるが、そうであれば道はイエス自身ではない。イエスは道を造る存在であり、イエスが歩くところが道になるのだということではない。そうではなく、イエスが道であると言うのだ。ということは、イエスはイエス自身を通って父の家へ行くのである。何故なら、イエスと父は一だからである。

父と一であるイエスが、父の家に行く。父の家に行くには、ご自身を道として歩くことなのだとイエスは言うのだ。道であるということは、「真理」と「命」と同じことであるとも言う。イエスが「真理」を教えるのではない。「真理」を見せるのである、ご自身において。「命」を与えるのではない。ご自身を与えるのである。イエスは真理そのものであり、命そのものだからである。命とは何かと問われれば、イエスであると答えなければならない。真理とは何かと問われれば、イエスであると答えれば良い。ポンテオ・ピラトはイエスの裁判の席で、最後にイエスに問う、「真理とは何か」と。イエスは何も答えていない。ただ黙っているだけである。ご自身を見せているだけである。「真理を証する」とイエスはおっしゃっているが、ご自身をご自身として証するということが真理を証することである。真理はイエスだからである。

従って、真理も命もイエスの外にはない。イエスそのものが真理であり、命である。道もイエスである。イエスがイエスを行く。道が道を行く。これが今日イエスが語っている真理である。道が道である。真理が真理である。命が命である。何かと問われても答えることはできない。命の意味、命の意義、命の正体を問うてみても、命は分からない。命は知識ではない。真理も知識ではない。道も知識ではない。イエスが歩き、語り、生きることを見ることによってしか、我々は認識できないのである。そして、認識は、イエスを見ることによって開かれる。道はイエスである。真理はイエスである。命はイエスであると、開かれる。このとき、我々はただイエスを見ている。イエスの十字架を見ている。イエスの生涯を見ている。イエスの苦しみを見ている。イエスの死に命を見ている。こうして、我々はイエスご自身においてすべてを認識するのである。これが信仰における認識である。

客観的知識は役に立たない。知識を獲得しても、生きることはできない。知識を蓄積しても、真理には至らない。知識があっても、道は歩けない。ただ、イエスを見ることだけが、道であり、真理であり、命である。イエスを見ているならば、道を歩いて父の家に行くことができる。イエスを見ているならば、真理のうちを生きることができる。イエスを見ているならば、命を受けることができる。イエスだけが父の家への道となり、我々を導き給うお方である。イエスを見ているならば、父が見える。父の家への道が見える。父の家の真理が見える。父の命が見える。これが今日、イエスが語っておられることである。

イエスの言が、真理である。それはご自分についての言である。真理の言はイエス自身である言である。イエスが語る言は父の働きである。イエスのうちで父が働いているがゆえに、イエスは語っている。父と一であるがゆえに、イエスの言は父の言である。イエスは、父の家への道であるがゆえに、イエスの言は父の言なのである。父から出てくる言がイエスである。父から出てくる道がイエスである。父から溢れてくる命がイエスである。イエスが我々のうちで生きることが、父が我々を生かすことである。命を生きるにはイエスを受けなければならない。イエスの十字架をわたしのための十字架と受け取らなければならない。そのとき、我々はイエスを命として受け取っている。イエスがわたしを闇から解放する命として受け取っている。そして、わたしは父の家にいる。あなたがイエスを見ているならば、父の家にいる。父の命を受けている。父の真理、ありのままの神を見ている。あなたの外にではなく、あなたのうちに生きているキリストによって、あなたは真理を見ている。ありのままのイエスを見ている。十字架のキリストは真理である。真理とは隠れなきこと。ありのままであること、それ自体が、真理であり、命である。イエスは、神の前にありのままに生きているがゆえに、道である。イエスを受けているならば、父の家にあなたはいるのだ。

イエスはご自分を道として進む。イエスはご自分を真理として宣教する。イエスはご自分を命として生きる。我々はイエスを見ることで、道を認識し、真理を認識し、命を認識する。イエスだけが我々にすべてを示す。イエスがご自分を現す人に、道が、真理が、命が与えられる。これがイエスを信じることである。イエスのうちに留まることである。他のところに道はない。他のところに真理はない。他のところに命はない。イエスにこそすべてがある。十字架のキリストにこそ、すべてがある。

道が閉ざされ、真理が分からなくなり、命が失われているように見える十字架にこそ、道が、真理が、命がある。閉ざされ、分からなくなり、失われたところに開かれ、示され、与えられるものがある。これが、イエスが今日我々に語っていることである。我々は、ただイエスを見ていれば良いのだ。イエスの十字架を仰いでいれば良いのだ。そこにこそ、我々が進むべき道がある。そこにこそ、我々が認識すべき真理がある。そこにこそ、我々を生かす命がある。

道であり、真理であり、命であるお方をいただくには、ただ信仰があれば良いのだ。我々が閉ざされていても、認識できなくても、我々のこの世の命が失われても、イエスが生きている限り、我々は生きるのだ。認識するのだ。進むのだ。父の家に向かって、進むのだ。

そのために、今日イエスはご自身を我々にくださる。聖餐を通して、ご自身をくださる。あなたのうちに道が与えられ、真理が与えられ、命が与えられる。ありのままに生きる道が与えられる。あなたは何者でなくとも良いのだ。イエスにおいてすべてが与えられているのだから。

祈ります。