2014年5月25日 末竹十大牧師
「ありのままの霊」
ヨハネによる福音書14章15節〜21節
「もし、あなたがたが愛しているなら、わたしを。わたしの掟を、あなたがたは守るであろう。わたしもまた、父をお願いするだろう。そしてまた別の励まし手を彼があなたがたに送るであろう。あなたがたと共に、永遠へと、彼がいるために。」とイエスは言う。この最後の「彼」とは誰なのか。今の文脈では、「父」でも良い。しかし、次の節でこう言われている。「ありのままの霊」と。この霊は、「世が受け取ることができない」霊であるとも言われている。「何故なら、彼を、それは見ないし、それは認識しないからである。」とも言われている。つまり、「世が見ないし、認識しない」霊が「ありのままの霊」なのである。
ということは、「世」は「ありのまま」ではないということである。何故なら、自分と同じ状態のものを見るのが、我々人間だからである。同じ状態のものを我々は認識するのである。我々人間は、自分と同じ状態の人間を理解するが、違う状態の人間は理解できないと思う。違う状態であっても、それでも認められなければならないとは言うが、それは自分が社会と違う在り方のときに言われる。自分が社会と同じ在り方で、ある人が社会と違う在り方であれば、「それは、その人が変なのだ。」と言うのが、我々人間である。反対に、社会と違う集団に属している場合、社会がおかしいのだと言うのも同じ思考である。我々は、自分と同じものは認めるが、違うものは認めない。これが「世」の理である。
「ありのままの霊」は、「ありのまま」であることを認める霊である。「真理」とは神に造られた「ありのまま」であることだからである。従って、「世」はこれを見ることも、認めることもできないのである。何故なら、「世」は「ありのまま」ではないからである。神に造られたありのままであることができなくなったのが「世」なのである。だからこそ、「世」は「ありのまま」を見ない。見ないがゆえに、認めない。こうして、「ありのまま」はないことになってしまう。見ないし、認めないのだから、ないも同然である。ないものを求めることもない。ないものは思考の中には入ってこない。従って、「世」は「ありのまま」を考えることもできないのである。
しかし、「ありのままで良いんだよ」と良く世の中では言われるではないか。それは、神が造ってくださった「ありのまま」ではなく、ただ今の自分を肯定したいだけの「ありのまま」なのである。真理の霊、励まし手が伝える「真理」、「ありのまま」とは、今の自分ではないのだ。今の自分は、「ありのまま」を排除し、「ありのままではない」自分を良しとしているのである。「こうだったら、もっと良かったのに。」、「あの人のようだったら、わたしは認められたのに。」というように考える思考を良しとしているのである。それが向上心だと考えているのである。
今の自分は罪深く、変わりようがなく、どうしようもない人間であるとは、考えないのである。どうしようもない人間だと考えたならば、生きていけないと思うからである。しかし、信仰において神に造られた「ありのまま」を認める人間は、今の自分の視覚と認識が間違っていることを知っている。今の自分は、「ありのまま」ではないのだと知っている。今の自分は、この世に、世間に認められるために汲々としている自分なのだと知っているのである。それでは、神が造られた「ありのまま」を生きていないと知っているのである。
神は、人間を欠けている者として造られたのである。人間は、完全ではなかったがゆえに、罪を犯すことになったのだ。完全であるならば、罪は犯さなかったであろう。人間は、不完全である。欠けがある。それゆえに、罪に陥ったとも言える。従って、我々人間は、必然的に罪に陥るものを持っていたのだ。その反対に、主体的に罪に陥らず、神の言に従うことも可能であった。神の言に従うことも従わないこともできる人間は、実は不完全な人間なのである。完全な人間であれば、神の意志にしか従わないからである。ところが、人間は蛇の勧めに従った。そこに意味を求めたからである。意味を求めるということは、「ありのまま」を受け入れない心である。何故なら、意味があるから受け入れようと考えるからである。意味がないとしても受け入れよう、神が与え給うたのだからとは考えないのである。神の意志に従うことも従わないこともできる人間を造った神は、人間が主体的に自由に、神の意志に従って欲しかったのだ。それは実は人間の欠けであることも知っておられたのである。それでもなお、神は人間に主体的に従って欲しかったのだ。
こうして、人間は主体的という欠けを負うことになった。そして、主体的がわがままとなるのである。神が求めた主体性とは、自由に神の意志に従うのだから、主体的に主体的ではないことを選ぶ主体性なのである。これが「ありのまま」なのである。信仰における主体性とは、受け取る主体性である。受け取るという行為は、受動的であり、能動的ではないと思いがちである。しかし、信仰においては、能動的に受動するという主体性が起こるのである。受動することは、受動的受動と能動的受動に分けられる。受動的受動は主体的ではない。これは動物たちの受動性である。ただ、神に動かされている受動性である。しかし、能動的受動は神に動かされるのではなく、受動することを能動することであり、主体的受動と行っても良い事柄なのである。この主体的受動こそが「ありのまま」の霊の働きなのである。
我々が、主体的に受動的な生を生きるとき、神に従っていると言える。客体的に受動的な生を生きるときには、神に従っているのではなく、プログラムに従っているのである。受動するようにプログラムされたから、そうしているというだけなのである。しかし、信仰においては、主体的に受動することが可能となる。そして、信仰者は神に造られた「ありのまま」を生きることが可能となるのである。これこそが、「真理の霊」、「ありのままの霊」が働くときに起こることなのである。「ありのままの霊」は、我々が主体的に神に従うように導くのである。導かれるがゆえに、主体的ではないと思えてしまうが、従っているのは主体的なわたしなのである。これを自覚しているのが「ありのままの霊」に導かれている存在である。神が働いてくださっているがゆえに、わたしは神に従うのだという在り方である。
反対に、わたしが働いて、わたしはわたしに従うのだという在り方を示しているのがこの世なのだ。これでは、完全に神から離れている。こうして、この世は「ありのまま」ではなく、わたしという人間に依存した生を中心としてしか生きることができないのである。このような生は完全であるようで、欠けがある。しかし、「ありのまま」の生は、欠けがあるようで完全である。何故なら、完全である神に従っているからである。この世は、欠けのある人間に従っているがゆえに、不完全である。不完全であるがゆえに、神に生かされることはない。キリストが生きているので、わたしは生きているのだとは生きないのである。
完全な人間は、不完全さを認める人間である。それでもなお、神がわたしのうちに働いておられると信じている人間である。不完全をかこちつつ、神に従う人間である。そのように生きている人間のうちに、神が生きている。そのような人間は神のうちに生きている。そのような人間はキリストを見る。そして、自分を「ありのまま」に見る。キリストが生きているわたしなのだと見るのである。このとき、我々はキリストに従っているのである。ありのままに従っているのである。神に造られたわたしとして、キリストに従っているのである。
「ありのままの霊」の働きは、我々を主体的に神に従う者にする。真理の霊、励まし手がおられることで、我々は神のものとして生きる。このお方を主体的に受ける者こそ、主体的に神に従う者。能動的受動を生きる者。主体的受動を生きる者。
あなたがたは、このように真理の霊によって、導かれているのだ。ただ、ありのままに受け、ありのままのわたしを生きよう。神は、あなたが主体的にご自分に従うことを願っておられるのだから。
祈ります。
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