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2014年6月1日 末竹十大牧師


「すべての上に」

ルカによる福音書24章44節〜53節

 

「このように書かれている。キリストが受難すること、死者たちから立ち上がること、三日目に。そして、宣教されること、彼の名の上に、悔い改めが、罪の赦しへと、すべての民族へと。エルサレムから始めて。」とイエスはおっしゃっている。ご自身の受難と復活と宣教が聖書に書かれているのだと言うのである。律法の書と預言者の書と詩編に書かれていることだと言う。しかし、直接的にこのように書かれている箇所はないのだ。これはどういうことであろうか。書かれていると言いながら、書かれている箇所がないとすると、書かれていることではない。いったいどこに書かれているのか。

イエスがこう語る前に、弟子たちの聖書を理解する理性を開いたと言われている。聖書をそのままに読んでも理解できないということであり、イエスによって聖書を理解するための理性が開かれない限り、我々人間は理解しないということである。聖書を理解するという出来事は、イエスがわたしの聖書的理性を開くときに起こる。さらに聖霊によって宣教が行われる。イエスによって開かれた理性が、聖霊を受け取る理性ともなっている。こうして、我々はイエスが開く業によって、聖書を理解するのであり、神の言として従うのである。

では、聖書を理解するとは、如何なる出来事なのであろうか。神の言として従うとは、聖書の言葉に直接的に従うことなのではないのだ。聖書が語っているのは、キリストの出来事であるとイエスはおっしゃるのだ。キリスト、すなわちメシアについて書かれている聖書は、どのような箇所であろうともキリストから読むということである。キリストが受難し、三日目に復活し、罪の赦しが宣教されるというキリストの出来事から、聖書を読むことである。聖書は、キリストの出来事へ向かって語っている。キリストの出来事が聖書の目的である。聖書を読んでいけば、キリストの出来事に突き当たるわけではない。ただ読んでも突き当たらないのだ。しかし、キリストの出来事を目的として書かれた聖書が指し示しているのはキリストの出来事である。キリストの出来事が聖書の目的であるということは、キリストの出来事が聖書の起源であるということなのだ。キリストからキリストへと聖書は書かれている。ということは、キリストの出来事が書かれている聖書は、キリストに規定され、キリストへと向かっているのだ。

このような聖書から我々が何を如何に聞くかは、キリストから読まなければ分からないのである。受難と死と復活と罪の赦しへの方向転換は、キリストから来るのである。キリストが我々の罪の赦しの起源であり、目的である。キリストからキリストへと我々は導かれる。この道において、我々は聖書を理解するのである。このわたしが罪によって神に背いて生きてきたことを。このわたしが罪によってキリストを苦しめたことを。このわたしが罪によってキリストを殺したことを。この人間性の罪がキリストを受難と死と復活へと導いたのだ。このわたしがキリストの受難を、死を、復活を導入したのだ。それゆえに、キリストはわたしのために死んだ。わたしのために復活した。わたしのために罪を赦した。わたしが神に従って生きるためにキリストは生きておられるのだ。このキリストを語っているのが聖書なのである。

このような聖書が人間性の罪の世界であるこの世をすべて包含しながら、キリストを語っているとすれば、キリストはこの世のすべての上に立っておられる。人間性の罪を克服したキリストはすべての罪の上に立っておられる。キリストから始まり、キリストへと書かれている聖書は、我々人間の罪を包むキリストを語っているのだ。従って、すべての上に立つキリストを語っているのである。

すべての上に立つキリストは、我々を生かすために立つ。我々の罪を赦し、悔い改めて、方向転換して、神に向かって生きるようにと導く。方向転換して、我々はキリストに向かって生きるとき、キリストに従い、神に向かって生きるようにされる。こうして、我々は自らの生において、キリストを証するのである。それゆえに、キリストは弟子たちに言う。「あなたがたは、これらのことの証人」と。

証人は、自らの体験に基づいて証言する。体験のない証人はいない。自らが見ていないもの、経験していないものを証言することは誰にもできない。従って、証人は自らがキリストに罪赦され、キリストに従うようにされて、神の方を向くようにされた経験を持っている。それが、弟子たちだとキリストは言うのである。そのために、彼らは聖書を自らのためのキリストから理解するように、理性を開かれたのである。開かれた理性によって、弟子たちはキリストを証ししたのだ。

我々もキリストを起源として救われ、キリストへと向かうように導かれた。そして、神に従って生きる者とされたのだ。この救いの御業を経験した者は、証する。このわたしが救われたのは、わたしの悔い改めではなく、キリストがわたしを悔い改めさせたからなのだと。証しは、罪の赦しを宣教することである。このわたしは罪を赦されたのだと宣教することである。わたしが良い人間になって救われたのではないことを証することである。わたしの罪が支配していてもなお、キリストが救いの起源として立っておられるがゆえに、わたしは救われたのである。あなたの力、あなたの善き業、あなたの信仰によって救われたのではない。神の力、神の業、神の信仰によって救われたのである。あなたが自らの力を捨てさせられ、高いところからの力を着せられたから救われたのである。この究極的証しこそ、我々がなすべき証しであり、神が望んでおられることである。

すべての上に、キリストがおられる。天に上ったキリストはすべての上におられる。キリストは、聖書が語る罪の赦しの起源であり、目的である。起源と目的において、キリストが語っておられる。すべてを包含しつつ、キリストが生きておられる。すべての上に生きておられる。すべての上に、支配を確立しておられる。天に確立されているキリストの支配が、地上にも確立されますようにと、我々は証人として働くのである。

証人の働きは、聖霊によって始まる。神の約束に始まる。高きところからの力を着せられて始まる。我々が証することは、神の力によって救われたという経験である。我々が救われるとき、我々は自らの力に頼ることができないことを知って、すべての上に生きておられるキリストを受け入れたのだ。自己放棄において、救われたのだ。自己放下において、立たされたのだ。自己弾劾において、赦されたのだ。自己を弾劾する者が赦される者である。自己を放棄する者が自己を守る者である。自己を死なしめる者こそ、生かされる者である。

キリストがすべての上に支配しておられる。すべての上に立っておられる。すべての上に命を注いでおられる。すべての上に生きて、働いておられるキリストこそ、天に上られたお方。天において、すべてを支配しておられるキリストこそ、我々を神のうちに保つお方。高きところからの力こそ、神の力、神の愛、神の約束。約束に従って、我らに与えられる聖霊である。

この約束を確信し、弟子たちが毎日神を褒め讃えていたように、我らも毎日神を褒め讃えよう。神が顧み、神が祝福し、神が成就する我らの救いを感謝しよう。我らの力にあらず、神の力によって、救われたことを証ししよう。向きを変えられ、神のものとされた神の御業を宣べ伝えよう。あなたは、キリストを経験しているのだ。今も、キリストを経験しているのだ。あなたのうちなるキリストを経験しているのだ。あなたのうちで、祝福しているキリストを経験しているのだ。

天に上ったキリストは、救いの日に祝福するために再び来られる。主よ、来たりませと祈りながら、日々喜び生きよう。今日、与えられるキリストの体と血によって、あなたのうちには祝福が満ち溢れるのだから。あなたを祝福するキリストをいただこう。理性を開かれて。

祈ります。