2014年6月8日 末竹十大牧師
「生きている水」
ヨハネによる福音書7章37節〜39節
「わたしのうちへと信じている者は、聖書が言っているとちょうど同じように、彼の腹からの川たちが生きている水たちとして流れるであろう。」とイエスは言う。川たちと言い、水たちと言う。複数形の水たちは、川や湖や洪水を意味する。水の集まりが川であり、湖であり、洪水である。従って、彼の腹からの川たちも洪水を意味しているのだ。それは結界を越えて溢れ出すような水の流れなのである。ということは、イエスのうちへと身を投げ出している者は、その腹から洪水のように水が溢れ出すということである。その水は生きている水である。
生きている水とは、流れている水、動いている水、静止しない水である。静止しないのだから、常に変化している水である。流れている水が生きている水である。ということは、イエスへと信じる者は生きている水、流れて、留まらない水が溢れ出す存在となっているのだ。これはどういうことであろうか。
その人自身が水のように溢れ出すのではない。その人の腹からの洪水が生じるというのである。彼の腹から出てくるものは何であろうか。溢れ出すのであれば、溢れ出すものはその人自身の所有ではない。そうであれば、彼が溢れ出しているのではないし、彼が溢れ出そうとしても出せないものなのである。このような水の溢れ出しは、ノアの洪水のように神が生じさせるものである。
これをヨハネは霊だと言う。霊とはニコデモとの対話においては、風であると言われていた。風であるがゆえに、高きところから低きところへと吹くのである。神から我々のうちに吹き入れられた風が霊である。その霊が吹いている限り、我々は腹から水が溢れ出すような存在として生じているのである。溢れ出させなければならないのではない。吹かせなければならないのでもない。ただ、神から吹き入れられた風は必然的に溢れ出すのである。この溢れ出しがイエスの栄光、十字架の出来事と密接に関わっているのだ。十字架から吹いて来る風、溢れ出す生きている水。これが今日イエスが語っていることである。イエスのところに来て、イエスが与える水を飲むことによって生じる神的出来事である。この出来事は如何にして生じるのであろうか。
「渇いている人」が飲むのだと言われている。確かに、渇きを自覚していなければ、誰も飲むことを求めないであろう。渇きの自覚を起こすのはいったい何か。渇いていることが分かるのは、渇いていることを知るときである。しかし、渇いている自覚があるならば、自覚に基づいて、与え給うお方に求めるのである。この自覚がない限り、誰も求めることはない。求めない限り、溢れ出すこともない。従って、求めることが溢れ出しの原動力である。しかし、求めなさいと言われても求める心がない限り、誰も求めない。すると、求める心も神が与えない限り我々のうちには生じ得ないことになる。従って、風が吹くように、神の意志に従って吹いてくる風に従うことが我々が求めるようになることである。ということは、神が我々に求めさせ、実現してくださるのだ。
イエスの許へ行き、飲むという行為は、実際には水を飲むわけではない。これはたとえである。そのたとえとしての水飲みこそ、我々が神によって導かれるところである。渇いている者が水を求める。求めた水がその人のうちで泉となる。泉から川が溢れ出る。渇き、水、川。何もない渇きから、水となり、水の複数形としての川となる。無から一滴の水が生じる。生じた一滴の水が複数の水である川となる。このようなイメージをイエスは語っているのだ。あなたの何もない無から有が生じる。あなたが生じさせるのではない。何もないという自覚があるならば、無である自覚があるならば、あなたのうちから生じる。それが風である霊である。高きところから低きところへと吹く風。満ち満ちているところから、何もないところへと吹く風。充満から欠乏へと吹く風。それが聖霊、神の霊である。
欠乏である渇きは、イエスが十字架の上で経験された渇きである。イエスは何もなくなった。彼のうちには何もなくなった。渇ききったイエスのうちへと神の霊が風のように吹いて来た。こうして、イエスは神の意志に従って生きたのである。何もなくなったとき、神の霊が吹いてくる。何もかもが失われたとき、神の風が吹いてくる。何もないわたしのうちから神の水が溢れ出てくる。何もないことの自覚、無の自覚を起こされた無力である者こそ、神の力に満たされる者である。
無の自覚は、どのようにして生じるのであろうか。自らが何者でもないという自覚であるがゆえに、挫折の中で生じる自覚のようである。ところが、挫折はただ不安を生じさせ、絶望を生じさせるだけである。これは人間的な無である。神的な無は、単なる挫折ではない。単なる不安ではない。単なる欠乏ではない。自らが何も生み出せないとの自覚は挫折ではなく、積極的自己否定であり、真実なる自己肯定である。挫折は積極的ではなく、消極的自己否定である。挫折は自己を肯定できない。真実なる自己肯定は何もできなくて良いということではない。できない自分がダメだと考えることは消極的自己肯定である。どうせダメなのだからダメで良いのだと考えるからである。しかし、積極的自己肯定は、ダメな自分が何も生み出す力はない存在であることを肯定するのである。罪人は何も生み出せないと。そして、神を肯定する。神を肯定すること、それが積極的自己肯定である。すべての力の源である神を肯定し、神に造られた存在として自己を肯定することである。そのときには、我々は自己ではなく、神の力によって活き活きと生きる者とされる。それが聖霊の働きであり、神の意志を認めさせる聖なる風の吹くときである。
使徒言行録において語られている事柄は、このような聖なる風の吹くときである。彼らが何もできない被造物として、罪人であることを認め、祈っていたときに天からの風が吹いてきたのだから。我々が聖霊を受けたのも、そのようなときではなかったか。あなたが絶望ではなく、自らの無を認めたとき、あなたのうちに吹き来たった風が聖霊なのだ。聖霊によって、聖書を理解し、聖書が語る神の意志を受け取り、自ら神の前にひれ伏すことになったのだ。この働きは神の働きである。神から来る聖霊の働きである。こうして、あなたがたは聖霊が吹く神の宮となったのだ。
ところで、高きところから風が吹くのであれば、十字架は低きところではなく、最も高きところなのだろうか。そうである。イエスの十字架は栄光だと言われているように、もっとも輝いているものである。もっとも神が輝いているときである。いと高き神が輝いているときである。十字架が神の栄光を表しているがゆえに、低くとも最も高きところである。ということは、この世で最も低き十字架が最も高き栄光であることになる。こうして、この世は逆転される。
この世の価値、闇の価値に生きる我々が考える高きところは実は最も低きところであった。反対に、この世で最も低きところが神が働くところである。そこにおいて、この世との価値の逆転が生じ、この世を断罪する。十字架はこの世を断罪し、最も低くするものとしての神の低き業である。あなたが自らの低さを自覚したとき、自らの無を自覚したとき、自らの儚さを自覚したとき、あなたは神の溢れ出しの器とされているのである。
無の自覚、欠乏の自覚、渇きの自覚こそ、あなたを満たすお方への信頼。あなたは神のものとして、生きている水を供給する存在とされる。生きている水を溢れさせる者は、洪水に溺れさせられ、自らを死に至らされた者。神によって、すべてを剥ぎ取られた者。そして、神のうちにすべてを持っている者。
あなたのうちの欠乏から川が溢れ出す。神の川が溢れ出す。神の水、いのちの水が溢れ出す。この水は他者を潤し、わたしを神のうちに生かす水。生きて、働く水。自覚できなくともあなたの腹から溢れ出る生きている水。あなたがただキリストのうちに信頼して生きる限り、あなたはキリストのもの、神のもの、生きている水の源へと開かれた存在。溢れ出そう、生きている水に従って。
祈ります。
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