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2014年6月15日 末竹十大牧師


「与えられた権威」

マタイによる福音書28章16節〜20節

 

「わたしに与えられた、すべての権威が、天における、そして地の上の。それゆえ、行って、あなたがたは弟子にしなさい、すべての民族を。彼らを父と子と聖なる霊の名のうちへ沈めて。わたしがあなたがたに命じたすべてのことを彼らが守ることを教えて。そして、見よ。わたしはあなたがたと共に生きている、すべての日々を、世の終わりまで。」

イエスは、復活した後、弟子たちに山で出会われた。そして、この言を残した。イエスにはすべての権威が与えられたのだと。すべての権威は、天における権威であり、地の上の権威である。天においても地においても、すべて権威と言われるものがイエスに与えられたと言うのである。これは、人間である存在、地の上の存在には確認できるものではない。何故なら、誰もイエスが与えられた出来事を見ていないからである。その出来事は信仰においてしか見えない出来事である。何故なら、誰も神を見ることはできないからである。すべての権威は、神のものである。だから、神が与えたという出来事を、権威の戴冠式のような出来事を見なければ、認めることはできないであろう。イエスは、どこで与えられたのだろうか。それは十字架であり、復活である。十字架と復活において、イエスは与えられたのである、神の権威を、すべての権威を。しかし、十字架と復活が神的出来事であり、戴冠式であるとは誰も思わない。いや、地の上の人間には十字架しか見えないのだから、それだけでは認められないのである。

十字架という出来事は、地の上ではただの極悪人の死刑である。極悪人として処刑され、死んだイエスは誰でも確認できる。しかし、極悪人が神によって起こされた復活は誰でも確認できるわけではない。信仰を通してしか確認できないのである。それゆえに、十字架と復活という出来事は、十字架の両面である。十字架が極悪人の死でしかないというのは、地の上の認識である。十字架が神への従順であるというのは、天における認識である。この認識が十字架の裏面である復活に通じるのである。復活は、十字架が神への従順であるということを神が認めた出来事である。それゆえに、十字架の裏面は復活なのである。

十字架と復活は、一体としてイエスの権威授与の出来事なのである。すべての権威を与えられたのであれば、天においても地の上でも権威が与えられたのであり、神の権威を与えられたイエスなのである。このイエスが与えられた権威が、イエスの神性を表している。イエスの神性、イエスが神であることは、権威が与えられたということなのである。神の権威がイエスの権威なのだから、イエスは神である。しかし、この権威を認めるのは信仰だけなのだから、信仰においてしかイエスの権威授与は見えないのである。信仰は、イエスの神性を我々に認めさせる神の出来事である。この信仰のうちに生きているならば、「それゆえに」とイエスは言うのである。「それゆえに、行って、あなたがたは弟子にしなさい、すべての民族を。」と。

弟子にするようにとイエスは弟子たちに命じる。イエスの神性を認める信仰のうちに生きているならば、弟子たちはイエスの命令に従うであろう。生きていないならば、イエスの神性を認めないがゆえに、従わないであろう。ただ、それだけのことである。イエスの宣教命令と言われるこれらの言は、信仰によってしか聞き従うことができない言である。しかし、信じる者がいて、疑う者もいた弟子集団に、イエスはこの命令を語っている。ということは、イエスの命令は相手が如何なる者であろうとも語られており、有効化されているということである。その者が、信仰に入るならば、聞き従うであろうようにイエスは今日語っているのである。

イエスは信じる者だけに語るのではない。信じない者、疑う者にも語る。彼らが信じられるように語るのではない。ただ、語るのである。これが重要なことである。語られた言は、信じる者が聞き従うであろう。それで良いのだ。信じない者は、イエスの権威を認めないのだから、聞き従わない。それだけである。そして、信じないということにおいて、自らイエスの言の外に立つだけなのである。

弟子にするということが如何なることかをイエスは二つの分詞で語っている。沈めることと教えることである。洗礼と教えである。沈めるという洗礼が先に語られ、その後教えがある。つまり、洗礼を受けなければ、教えを聞くことはできないということである。確かに、洗礼を受ける前に、いくら教えられても、分からないのである。洗礼を受けるということは、信仰のうちに入れられることだが、それは父と子と聖なる霊の名のうちへと沈められることだからである。この洗礼は、人間的なものが水に沈められて死に、神的な名のうちに起こされることである。これは、復活と同じ出来事なのである。弟子にするということは、復活に与らせることである。そうしてのち、教えが彼らのうちに入っていくのである。洗礼を受けていなければ、教えも入らない。これが信仰の定式である。知識は洗礼前にどれだけ積んだとしても、洗礼ですべてが死んでしまうのだから、知識も失われてしまうのである。いや、洗礼前の知識は真実に認識されてはいないということである。洗礼後に教え導かれることによって、与えられた罪の赦しの恵みを自らのものとしていくことができるのである。それゆえに、人は洗礼後に良く学ばなければ、キリスト者として生きて行くことはできないのである。何故なら、すべての権威を与えられたイエスを認めることができないならば、どれだけ知識を積んでも、権威の下にある教えは理解されないからである。洗礼を受けなければ、イエスの権威を認めることはできない。これを逆転してしまうのが、人間なのである。イエスの権威を認めることができたならば、洗礼を受けても良いと思うのが人間なのである。これは傲慢という罪である。神の権威を自らが認めてあげて、洗礼を受けてあげようと言うのだから。これでは洗礼には至らない。そのような罪深い思考ではイエスの権威は認められない。これが人間の限界である。そのような疑う者に対しても、イエスは信じる者と同じ言を語るのである。それがイエスの権威である。権威ある者が語る言は、如何なる相手であろうと同じ言である。違う言を語ることはあり得ない。それゆえに、イエスは権威を与えられていると言える。それゆえに、イエスはその変わりない言において、「あなたがたと共に生きている」と言うのである。

父なる神への従順において、イエスは神的権威を与えられた。与えられた権威は、イエスの言において、弟子たちに語られ、働いていく。この働きが聖霊の働きである。父と子と聖なる霊の一体なる神のうちに導き入れられた存在がキリスト者なのである。それゆえに、キリスト者は神を父と認め、イエスを神と認め、聖霊を神と認める。三位一体の神のうちで、イエスに与えられた権威に基づいて、キリスト者が造られていく、イエスの権威ある言によって。これが今日、イエスが弟子たちに語ったことなのである。

我々は、如何なるときも、如何なる状態にあろうとも、ただイエスが与えられた権威を信頼して、すべての民族を弟子にする働きをなしていくのである。それは、イエスの言を語ることにおいて行われる。イエスの言の働きである。宣教とは、イエスの与えられた権威の働きなのである。我々人間が他の人間を弟子にするということではないのだ。イエスの言に信頼することにおいて、イエスの言を語り、語られたイエスの言がその人を弟子にするのである。それゆえに、我々はイエスの言を語り続けるのである。聖霊は、イエスの与えられた権威に基づいて、イエスの言を通して働くのである。

十字架と復活を通して、イエスに与えられた権威が、我々キリスト者と共に生きている。イエスご自身の言として生きている。その言が我々に身体的に与えられる聖餐を通して、キリストがあなたのうちに生きて働くのである。キリストがあなたに語る言を生きて行こう。そのとき、あなたは宣教するのである、イエスの権威によって働く言によって。

祈ります。