2014年6月22日 末竹十大牧師
「実を結ばせる言」
マタイによる福音書7章15節〜29節
「その日に、多くの者たちがわたしに言うであろう。主よ、主よ、あなたの名によって、わたしたちは預言しなかったですか。そして、あなたの名によって、わたしたちは追い出さなかったですか、悪霊を。そして、あなたの名によって、多くの神の可能とする力を行わなかったですかと。」とイエスは言う。そのように言う者たちをイエスは「知らない」と言う。どうしてなのか。彼らが、「わたしたちが預言した。」、「わたしたちが追い出した。」、「わたしたちが行った」と言うからである。まさに、そうなのである。イエスの名を通して、神が、預言させ、追い出させ、行わせたことを、まるで自分たちの成果のように言うからである。そのような者たちは、自らイエスを知らない。名前は知っていても、イエスによって行わされていないがゆえに、イエスを知らない。イエスも、彼らが勝手に行ったこととして、彼らを知らない。これは当然である。
しかし、彼らは自ら神の意志を行ったのではないのか。イエスが言うように、「わたしの天の父の意志を行う」者ではなかったのか。いや、彼らは自らの意志を行ったのである。自分たちが人々から褒められるために、イエスの名を使ったのである。自分たちが人々から信奉されるために、イエスの名を使ったのである。自分たちが人々から恐れられるために、イエスの名を使ったのである。そのような名の使い方は、結局自分のために行ったことなのだから、イエスはあずかり知らないことである。それゆえに、「あなたがたを全く知らない」とイエスは言うのである。「わたしから離れよ、法にあらざることを働く者たちよ。」とイエスは言う。不法とは、法ではないことである。それは、例外ではない。法の外にいる者たちということである。法の外にいるとは、法を無視していることである。イエスが言う法の無視とは、神の意志を無視することである。彼らは、神の意志を行ったのではなかった。神の意志を無視したのである。神の意志によって、自らが行わされているとは思ってもいなかったのである。彼らにあるのは、徹頭徹尾自らの意志だけである。それでは、神の意志に従うことも、神の意志を行うこともできないのである。
では、神の意志を行うとはどういうことであろうか。我々が神の意志を行えないと認めることから始めることである。それゆえに、イエスは良い木と悪い木の話をしているのだ。この話は当たり前のことを語っている。良い木が良い実を結ぶ。悪い木が悪い実を結ぶ。それだけであり、それ以上ではない。これを変えることは誰にもできないのである。しかし、自らを誤魔化し、自らの貪欲さによって、オオカミが羊の皮を被るということが起こるのである。オオカミはオオカミである。羊ではないのに、オオカミが羊を装う。オオカミなのに、羊であるかのように振る舞う。これは、自分の意志なのに、神の意志に従っているかのように誤魔化すことと同じである。オオカミは羊にはなれない。良い木は悪い木になれない。悪い木は良い木にはなれない。人間の意志は神の意志ではない。これが神の意志の理。神の創造世界の理である。これを誤魔化すことが罪である。従って、自分が良い人間になっていると主張するような人間は、悪い人間である。自分が悪い人間であると居直る人間も悪い人間である。自分が悪い人間であると神の前にひれ伏す人間こそ、神の前に義とされる人間である。この人間は、神に造り替え給えと祈るであろう。自らが自分自身を変え得ないことを知っているからである。悪い木は悪い実しか結ばないことを知っているからである。悪い木のままでは、良い実は結べないことを知っているからである。この自覚を、罪の自覚と呼ぶのである。そのとき、その人は神の前に立っている。罪人として立っている。それゆえに、自らが善き業をなしても、自分の成果だとは言わない。神がなさせ給うたと神に感謝する。まして、善き業を行ったと自負することはないのである。だから、「主よ、主よ、あなたの名によって、わたしたちは預言しなかったですか。」などと言わないのである。「わたしは自分が褒められるために、あなたの名を使ってしまいました。お赦しください。」と罪を告白するのである。「どうか、あなたのご意志に従うように造り替えてください」と祈る。それが、イエスの言を聞いて行うことである。そのとき、我々は赦しの岩の上に自らの家を建てているのである。
自分の意志の上に家を建てるならば、変わり得る自らの意志は岩とはなり得ない。それゆえに、川が溢れ、風に襲われると、不安になり、うろたえてしまう。そして、自らを失ってしまうのである。それが、砂の上に家を建てることである。移ろいゆく自らの上に家を建てることである。しかし、変わり得ざるイエスの言の上に自らを建てるならば、我々は揺るがされることはない。川が溢れても、風が襲っても、わたしは揺るがされない。わたしが立っている岩は揺るがないからである。
このように生きる者は、自らの儚さ、脆さ、愚かさを自覚し、罪深い自らを弾劾する者である。そのような者は、自らに依り頼まない。自らを捨てている。自らを主に委ねている。それゆえに、主がその人を守る。その人は主のものである自らを生きている。そして、主に知られている。終わりの日に、主はその人を知っていると言う。主はその人をご自身のものと告白してくださる。
あなたは悪い木なのだ。悪い木である自分自身を知らなければならない。悪い実しか結ばないことを知らなければならない。良い実は、良い木である主イエスのみが結ぶことができることを知らなければならない。そのとき、あなたは主を知っている。そのとき、あなたは主に知られている。そのとき、主はあなたを造り替え給う。そうして後、主の言が、あなたに実を結ばせるのである。そのときには、あなたは自らが結んだとは言わないであろう。そのとき、あなたは主に感謝するであろう。そのとき、あなたは主を讃美するであろう。わたしのような罪深い者を良き実を結ばせる者としてくださったと、神に感謝するであろう。こうして、あなたは主のものとして生きるのである。
あなたは悪い木である。あなたは砂の上に家を建てる者である。あなたは羊の皮を被ったオオカミである。自らを正しく見よう。自らを正しく見る目を開いていただこう。自らを造り替え給うイエスの言を心して聞こう。主の言は、実を結ばせる言である。あなたの罪を糾弾し、あなたをご自身の意志に従わせる言である。あなたを愛し給う主の言が、あなたに実を結ばせ給う。こうして、あなたは主のものとして生きていくのである。終わりの日に、切り倒されることはない。火に投げ込まれることはない。主はあなたの実を見分けてくださる。わたしが結ばせた実であると見分けてくださる。
イエスの言を聞き続ける者が、岩の上に家を建てる者である。イエスの言によって、耳を開かれた者が、イエスの言に信頼する者である。イエスの言が開く世界を生きる者である。あなたは、イエスの言を聞いている。イエスが語りかけ給う存在である。イエスが造り替えたいと願っておられる存在である。不安に陥ることはない。イエスの意志がある限り、我々は失われることはないのだ。造り替えられるのだ。法に従って、造り替えられるのだ、神に従う者に。
実を結ばせる言にこそ力がある。実を結ばせる言こそ神の意志を実現する。実を結ばせる言は、十字架の言である。我々の罪のために、ご自身を献げられた主の十字架こそ、実を結ばせる言である。この言に照らされて、我々は自らを省みよう。自らを弾劾しよう。自らを十字架につけよう。主と共に死んだなら、主と共に生きるとパウロが言うように、主と共に死のう。自らの罪に死のう。そして、主と共に生きよう、神の意志に従って。
祈ります。
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