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2014年6月29日 末竹十大牧師


「わたしに従いなさい」

マタイによる福音書9章9節〜13節

 

「わたしは来たのではない、義人たちを呼ぶために、むしろ罪人たちを」とイエスはファリサイ派の人たちに言う。義人たちを呼ぶということは、義人だと自負している者たちを呼び集めることである。しかし、イエスは罪人たちを呼び集めるために来たのだと言う。どうしてなのか。罪人たちは、誰も呼んでくれない者たちである。誰にも見向きもされない者たちである。彼らは呼ばれたいと思っている。誰かが呼んでくれないかと思っている。誰かに認められたいと思っている。そのような者たちを呼ぶために来たのだとイエスは言う。呼ばれたいと願っている者たちは、自分自身を否定しているであろう。誰も呼んでくれない自分だと否定しているであろう。そのような者たちを呼ぶのだとイエスは言うのである。

しかし、罪人たちを呼んでどうするのであろうか。義人たちを呼び集めれば、義人たちだけの集団が生じる。義人たちの集団は良い世界を造るであろうと思える。そのような善い人間の集団を造ることが目的ではないとイエスは言うのである。罪人の集団を造るのであろうか。それならば、ファリサイ派の人たちが批判するように、罪人たちが集まって悪人の集団を結成し、世界は罪に包まれてしまうのではないか。そのような世界を造ってどうするのであろうか。イエスは、この世界を悪で支配しようとしているかのようである。罪で満たそうとしているかのようである。ファリサイ派の人たちが批判するのも肯ける。イエスのようなことをしていれば、世界は悪に傾いていくのだと。良い人間を集めて、善い世界を造る。それが良いことではないのか。しかし、イエスは反対のことをしているのである。ファリサイ派の人たちが理解できないことをしているのである。これは、一般的には理解不能なことである。

イエスは罪人たち、徴税人たちを集めると言うのだ。まるで、ならず者集団を結成するかのようである。それが、神の意志であると言う。「わたしは意志する、憐れみを」というホセア書66節の言葉をイエスは引用する。この言葉を学びなさいと。ホセア書の預言が、イエスが行っていることだと言うのだろうか。罪人たちを呼び集めることが、神が意志する「憐れみ」なのだろうか。苦しんでいる者たちを憐れむのであれば分かる。痛みを負っている者たち、苦難を負わされている者たちを憐れむならば理解できる。しかし、罪人たちを呼び集めることがどうして憐れみなのだろうか。罪人たちを憐れむことが神の意志なのだろうか。

ホセア書の言葉のように神が喜ぶのは愛だとしても、それは悪人を招くことだろうか。悪人であれ善人であれ、義人であれ、罪人であれ、天の父は雨を降らせ、太陽を昇らせるとイエスはおっしゃっていた。それが愛なのだとおっしゃっていた。しかし、それは罪人が、悪人がその愛を実行しなければならないのではないのか。善人は実行している。義人は実行しているではないか。だから、善人であり、義人なのではないのか。悪人は実行していないから悪人であり、罪人なのである。そのような者を愛することが憐れみなのだろうか。それでは、悪が野放しにされてしまうではないか。むしろ、悪人が天の父のようにすべての者を愛するように生きるべきなのではないのか。

このように考える者は、悪人ではなく、罪人でもなく、善人であり義人であると思っている。そして、善人の世界を造るために、悪人を駆逐する。罪人を駆逐する。こうして、善人だけの世界を構築することができると思い込んでいる。しかし、自らが罪人であり、悪人であることを知らない。何故なら、神が造り給うた存在を駆逐することを考えているのだから。神の創造を悪であり、罪であるとしているからである。このような人間は、自らの罪を知らず、罪人を招く神を知らない。そして、自ら神の国の外に出てしまうのである。

悪人は悪人である。罪人は罪人である。そして、人間である。彼らは苦しんでいる。善人よりも苦しんでいる。誰かに呼ばれたいと求めている。人間として生きたいと求めている。徴税人マタイもそうであった。彼は、誰からもマタイとして認識されず、収税所に座っている存在としか見られなかった。収税所と一体化した存在。収税所そのもの。それがマタイであった。彼がイエスの言を聞いて、イエスに従ったのは、呼ばれたからである。彼は呼ばれたかったのだ。認められたかったのだ。「わたしに従いなさい。」とイエスが彼を呼んだ。だから、彼は「立ち上がり、彼に従った」のだ。福音書記者マタイはこう記している。「イエスは、そこから進んで、人間を見た、収税所に座っているマタイという人間を。そして、彼に彼は言う。あなたは従いなさい、わたしに。そして、立ち上がって、彼は従った、彼に。」と。イエスは、わたしを人間として認めてくださったとマタイは記しているのだ。

このようにすぐに従うはずがないと、我々は考えてしまう。しかし、マタイが記すように、「わたしに従いなさい。」といわれて、マタイは「立ち上がって、彼に従った」のだ。それがマタイの召命であった。マタイは、呼ばれて立ち上がった。「立ち上がる」とは、新たに立つことである。座っていた人間が立つのだ。収税所そのものと思われていた存在が、人間として新たに立つのだ。それが呼ばれることである。呼ばれて、しばらく考えてから立ち上がることはない。すぐに立ち上がらなければ、立ち上がることはできない。「わたしに従いなさい」と呼ばれたから、従ったのだ。それが召されることである。他に何も介在しない。イエスとわたしとの間には何も介在しない。イエスが呼び、わたしが従う。ただそれだけなのだ。そのような存在は、呼ばれたいと願っていた存在である。それゆえに、イエスの呼び出しに、すぐに従うのだ。

あなたがたも呼ばれて従った。「わたしに従いなさい」と呼ばれて従った。イエスが呼んだから従った。ただそれだけであなたはイエスのものとして生き始めたのだ。従ったら、どうなるかと考える暇もなく、従ったのだ。従おうと思った時は、従っていたのだ。じっくり考えていたのではない。すべてのことを考え合わせて、従うことが一番良いからと従ったのではない。ただ従ったのだ。従うときには考えないのだ。躊躇しないのだ。従おうかどうしようかと考えている間は従えない。「わたしに従いなさい」と言われて従うだけなのだ。

誰も呼んでくれない存在を呼ぶイエス。誰も認めない存在を人間として認めるイエス。このお方がわたしを呼んだ声を聞いたとき、わたしは従った。それまで、いろいろと考えていたときには、わたしが呼ばれているとは考えていなかった。わたしはイエスに従えるだろうか。従ったならば、今の生活はどうなるだろうかと考えていただけである。わたしが従うために、どうしたら良いのかと考えていたのだ。しかし、従うときには、「わたしが呼ばれた」と思ったのだ。イエスの声を聞いたのだ。ただそれだけである。イエスの声を聞いただけで我々は従ったのだ。マタイと同じである。

イエスがこのわたしを呼んでくださったと、声が聞こえてきたのだ。そのとき、我々は罪人だから従えないとは思わなかった。善人にならなければ従えないとは思わなかった。義しい人間にはなれないから従えないとは考えなかった。何も考えず、ただ従ったのだ。何故なら、イエスに呼ばれたからである。

罪人は呼ばれることを求めている。善人や義人から蔑まれ、誰も呼ばないと言われ、人間として認められない罪人。呼ばれたい。人間として見て欲しいと求めている。そのような人間こそ、神の憐れみを受け取るのだ。そのような人間こそ神が憐れむのだ。そのような人間こそ神の意志は憐れみだと知るのだ。そして、自分が憐れまれたように、認められていない他者を認めるようにされるのだ。

今日共に与るキリストの体と血は、神の憐れみである。あなたを呼ぶ、キリストがご自身を与えてくださる。あなたのうちに憐れみを注ぎ、あなたが憐れみを生きるようにと、与えてくださる。感謝して受け、キリストに生きていただこう。「わたしに従いなさい」と呼ぶキリストに従って行こう。憐れみを伝えるために。

 祈ります。