2014年7月6日 末竹十大牧師
「与えられた権威」
マタイによる福音書9章35節〜10章15節
「そして、彼の十二人の弟子たちを呼び寄せ、彼らに汚れた霊の権威を彼は与えた。それを追い出し、すべての病苦とすべての柔弱さを手当てし癒やす権威を」と言われている。十二人の弟子たちには、権威が与えられた。それは限定的な権威である。「汚れた霊の権威」である。汚れた霊を追い出す権威であり、汚れた霊による病苦を手当てし、汚れた霊による弱さを癒やす権威である。28章16節以下で、イエスが父なる神から与えられた天と地のすべての権威ではなく、限定的に与えられた権威である。イエスが持っている権威のうちの一部である。
しかし、この権威は究極的には父なる神の権威なのだから、弟子たちは神からの権威を与えられたのだ。この権威は彼らをも包む権威である。何故なら、イエスは13節でこうおっしゃるからである。「もし、その家が相応しければ、あなたがたの平和はその上に来たれ。しかし、もし、相応しくなければ、あなたがたの平和はあなたがたのところに戻って来よ。」と。すなわち、弟子たちが語る挨拶は、平和であり、語られた平和は、その家と弟子たちを包むのである。しかし、相応しさがなければ、その家には平和は来たらない。これは、イエスの命令であり、願いではない。イエスは、弟子たちに命じたのであり、弟子たちの挨拶の言葉に、イエスの命令が含まれているのである。従って、イエスの命令は、弟子たちを通して、相応しさを通して、その家に来たるのだ。
しかし、相応しさとはいったい何だろうか。それは、ただ受け入れることである。ただ受け入れることによって、イエスの命令が働くのである。それゆえに、命令を受け入れる家は、受けるに相応しいのである。
この相応しさを誰も作り出すことはできない。ただ、イエスの命令だけが、相応しさを作り出す。受け入れさせる力ある命令が、相応しさを作り出すのだ。受け入れさせる力を受け入れる存在は、相応しくされているのである。それが、イエスの権威が与えられた結果である。結果が相応しさであるか否かは、受け入れにおいて決まっている。受け入れない家は相応しくない。受け入れる家は相応しい。それだけなのだ。
それでは、受け入れるようになっている家は、どのような家なのだろうか。誰でも受け入れる家なのか。いや、弟子たちを受け入れるようにされている家である。イエスの権威を認める家である。彼らは、イエスの弟子であるとは分からないであろう。突然訪れた者を、イエスの弟子だと判別することはできない。しかし、弟子たちを受け入れる家があるのだ。その家に留まるようにとイエスは勧めている。
突然の訪問者に何かを感じるとき、その家はすでに弟子たちと結ばれているのである。いや、神の権威を認めているのである。神によって、弟子たちと結ばれているのである。そのような家が存在するということ自体が、神の権威なのである。その家も神の権威に包まれているのである。
そうであれば、弟子たちが神の権威をイエスから与えられたことは、神の権威に従う存在として認められたということである。神の権威を認める者が、神の権威を認める者と結ばれる。それが弟子たちの宣教活動である。癒やされるべき者が癒やされ、追い出されるべきものが追い出される。癒やされざる者は癒やされず、追い出されざるものは追い出されない。これは決定論的ではあるが、神の権威が作り出す裁きなのだ。使徒パウロが出エジプト記33章19節の言を引用して語っているように、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ。」と。「このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」と、ローマの信徒への手紙9章18節で言う通りである。従って、弟子たちが選ぶのではなく、神が選んでいるものを弟子たちが選ばされるのである。こうして、弟子たちの神との平和は、その家の神との平和として存続するのである。これは、弟子たちが権威ある存在ではなく、権威に用いられる存在だということである。
権威に包まれる存在同士が、共に権威に与ること、それが弟子たちの宣教である。追い出し、癒やす権威に共に与る宣教である。ここに我々の宣教の原型がある。我々は宣教するが、相応しい者が受け入れる。相応しからざる者は受け入れない。それだけである。我々が選ぶのではなく、神が選んでおられる、神の権威に包まれている存在を。
そのような宣教は、与えられた権威に、十二弟子たちが包まれてこそ可能なのである。自分たちが権威を持っていると思い込むと、自らは権威の外に立つことになる。権威を使う立場になり、権威に相応しくない者となる。我々は、使徒パウロが言うように、「福音に共に与る者」、すなわち「福音の共なる交流者」としてこそ、宣教できるのである。弟子たちに与えられた権威は、実は彼ら自身が包まれ、与る権威なのである。彼らが持って、行使する権威なのではない。我々も、この点を間違えてはならない。わたしが権威に服するように生きているならば、わたしを支配する権威が働く。そして、権威に相応しい者を、権威自体が選び、支配する。こうして、我々を包む権威が、一人ひとりを包んでいくのである。
十二弟子たちに与えられた権威自体が、汚れた霊を追い出す。権威自体が、弱っている者を癒やす。我々が癒やさなければならないのではない。我々が従う権威自体が癒やし、追い出すのである。ここにおいて、我々は何者でもない。権威もない、取るに足りない存在である。しかし、権威に服する者であるならば、権威のうちに共に生きる働きができるのである。何者でもなくとも、神の器とされるのである。それが今日、弟子たちに与えられた権威の働きである。
彼らが何も持たないように指示されるのはそのためである。彼らが神の権威以外に依り頼まないためである。依り頼むべきは、神の権威である。イエスの与えた権威である。この権威にこそ力があると信頼してこそ、弟子たちの宣教は可能とされるのである。弟子たちが呼び寄せられたのは、選びであるが、呼び寄せられて従うがゆえに、選ばれ、用いられるのである。呼び寄せるお方にただ従う者が、用いられる者である。「無償の賜物をあなたがたは受けた。無償の賜物をあなたがたは与えよ。」とイエスが言うとおりである。
弟子たちが無償の賜物を受けたのは、彼らに力があったからではない。ただ、神が与えようとするものを無償で受けただけなのだ。神が与えようとするものをただ受けるということは、何者でもない者として受けることである。それゆえに、弟子たちは無償で与えよと言われるのである。彼らの力で勝ち取ったものではないからである。彼らが、その力を所有すべき価値ある存在だというわけではないからである。彼らは、与えられただけなのだ。所有するために与えられたのではない。むしろ、所有せず、自分のものとしないようにと、無償で与えられたのだ。
与えられた権威は、彼らの所有ではない。与えられた権威は、包まれている権威である。与えられた権威は、神が相応しいものを選び取る神の権威である。この権威を無償で与えられたものとして受け取る存在は、自分のものとせず、交流者とされるのである。交流者とされる者こそ、相応しい者である。
イエスは、その権威を弟子たちに与えた。神との平和を生きる権威を与えた。神のシャロームを生きるようにと与えた。神のシャロームに包まれるようにと与えた。イエスが与えた権威は、イエスが所有するものである。イエスが所有するものを我々に与えること。それが、今日共に与る聖餐である。この聖餐を通して、我々はイエスの権威に包まれる。イエスが、相応しいものに与える権威に包まれる。イエスの権威が、我々を一つにする。権威に従う者にする。我々が、イエスの体と血を、ただアーメンと受けるとき、我々は相応しい者である。あなたは、イエスの死を宣べ伝えながら、共にイエスの死に与り、イエスと共に生きるのである。
今日、与えられた権威をありのままに受ける者に幸いあれ。イエスはあなたのうちに力となり給う。
祈ります。
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