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2014年7月13日 末竹十大牧師


「括られざる一」

マタイによる福音書10章16節〜33節

 

「アサリオンの二羽の雀が売られていないか。そして、それらからの一羽は、落ちない、地の上に、あなたがたの父なしに。」とイエスは言う。「父なしに」、つまり「神なしに」一羽は落ちないと言う。「神なし」に落ちないということは、落ちることさえも「神なし」にはあり得ないということである。これが、生きるということであるならば、分かりやすい。しかし、イエスは一羽の雀の死を、「神なしに」は起こり得ないことだと言うのである。一であるものの死が、神によって起こると言うのである。

我々は、神なしには生き得ないと言って欲しい。生きることが、神が求めていることだと思いたい。どんなに小さな存在であっても、神は生きて欲しいのだと思いたい。しかし、イエスは言う、「一羽の雀の死は、神がおられてこそ起こるのだ。」と。死という悲しい出来事が神によって起こると言う。死という存在の消失が神によって起こるのだと言う。存在をあらしめておられる神が、存在の死を望むのだろうか。生きることを望むのではないのか。いやしかし、神はイエスの十字架の死を望んだではないか。イエスが十字架に架かることは神の意志ではなかったか。神の意志はイエスの死にあったのではないのか。そうであれば、ここでイエスが言う一羽の雀の死は神の意志である。一である雀の死を神が望むのである。死を望む神は神なのか。悪魔ではないのかと我々には思えてしまう。果たして、神が死を望むのか、悪魔が死を望むのか。

しかも、この言葉の後で、イエスは言う。「それゆえに、恐れるな。多くの雀たちよりも、あなたがたは価値がある。」と。つまり、あなたがたは価値があるから、雀たちよりも神があなたがたの死を望んでおられるのだということになる。我々は、神が生を望み、死を望まないと考えてしまう。しかし、イエスは死を望む神を語るのである。これはどういうことであろうか。

我々が考える死は、我々にとって良くないことである。何故なら、我々の存在が失われるからである。存在が失われることは、存在しているものにとっては否定である。しかし、この否定をイエスは神によって起こることだと言うのである。これは、死さえも神なしには起こり得ないということである。我々が否定的にしか見ない「死」さえも、神なしに起こり得ないとすれば、そこまで至っていない迫害や憎しみも神によって起こるのだ。そして、この世の出来事は如何なることであろうとも、神なしに起こり得ないのだ。従って、神がすべてを治めておられるということになる。イエスが見ておられる世界は、死という否定を究極的な地点として、神によってなる世界なのである。従って、否定的な究極を起こし給う神は、究極以前の事柄に対しても、起こし給う神なのである。

我々は勘違いしている。良いことだけが神によって起こり、否定的なことは神なしに起こると。あるいは、否定的なことは悪魔によって起こるのだと考えるものである。ところが、イエスは否定も肯定も神なしに起こり得ないと言うのである。「神があなたがたの頭の毛すべてを数えてしまっていることが存在しているのだ。」と言うのは、肯定である。神が見ていないことは何一つないということである。そうであれば、我々の死という否定的な事柄も神が見ておられ、神がいてこそ起こると言える。

では、神は否定も肯定も起こし、我々は神の起こした否定と肯定に揺さぶられているのだろうか。いや、否定と肯定を神が起こしたのであれば、我々は死という最終的な否定においても、神と共にあるということである。神がおられなければ、我々は死ぬことさえもできないのだとイエスは言うのだ。この世の最低最悪の事柄、死という否定の事柄が神によって起こるとすれば、そこまで行っていないことはすべて神によって起こっている。そして、神によって起こっているということは、神がすべて管理し、統治しておられるということである。そうであれば、我々が否定と感じ、存在が失われると思う出来事であろうとも、神が管理し、統治しておられるのである。この否定と肯定の両者を統治するがゆえに、神は神なのである。

それはまた、二羽の雀として括られる小さな取るに足りない存在の死さえも、神は一の死として見ておられるということである。そこには括られざる一があるのだ。括られざる一は、神が見給う一である。神が統治し給う一である。神は括らず、一を一として認める。そして、一は神によって生き、神によって死ぬのだ。

小さな取るに足りない一である雀が神によって死ぬ。神によって死んだ雀が、死んだ後も神のうちに存在しないはずはない。括られざる一は、一として存在するのである。しかし、存在として失われているのではないのか、一である雀は死んだのだから、地に落ちたのだから。ところが、括られざる一なる雀は、死んでもなお神なしにあることはないのだ。死が神の統治の下にあるならば、死後も神の統治の下にある一なる雀なのである。二つ一緒でしか売られていない雀が、一として神によって地に落ちる。ここにおいて、神の視線は一に注がれている。地に落ちる雀は神によって死ぬ。我々が二羽で一と括ってしまう雀が、括られざる一として地に落ちる。地に落ちた雀は、神なしに落ちないのだから、その死という存在の否定さえも、神の顧みの下にあるのだ。

死は神がおられてこそ起こると信頼すること。それこそが、迫害を恐れないで生き、すべての人に憎まれてもなお生きることに通じている。死は終わりではない。死は存在の否定ではない。神の目が注がれているのだから、神の目に存在は否定されていない。十字架のイエスの死も、神の目に否定されているのではないのだ。「何故、お見捨てになったのか」と十字架上で叫ぶイエスが言うのである。ここでは、死は神が起こすことだと言いながら、自分の死に際しては、見捨てられたと言うのだろうか。イエスは、ここで語ったようには生き得なかったのか。いや、そうではない。イエスは、十字架上で、そのように叫ぶお方を持っていたのだ。信頼しているがゆえに、生かされているがゆえに、神に叫ぶのだ。信頼を裏切られたと思えることにおいて、神に叫ぶのだ。従って、イエスは神を見失っているのではない。神がイエスを見失っていないのだから。イエスも神を見失っていないからこそ、神に叫ぶのだ。

死を与えるのが神である。死を起こすのが神である。死を支配するのが神である。死を越えてもなお、神は神である。何故なら、神なしに何一つ起こり得ないからである。起こるべき死、起こるべき悲しみ、起こるべき苦しみ、これらすべての否定的出来事は神なしに起こり得ない。そして、神がおられる限り、我々は失われない。我々のこの世における存在の消失も、神なしに起こり得ない。イエスの十字架の死も、神なしに起こり得ない。イエスは、この神への信頼を十字架の上で生きたのだ。生きるべき死を生きたのだ。神が起こすことが生と死である。神のうちにすべてが起こる。それゆえに、我々は恐れる必要はない。如何なる否定的出来事も、神の顧み、神の支配の下にあるのだ。その意味が分からなくとも、その意味が見えなくとも、その意味が否定であろうとも、神の支配の下にある意味の否定である。我々は意味を求めなくとも良い。神が知っておられるのだから。一であるあなたを神は知っており、神が生かしており、神が死なしめるのである。

神のうちにあるならば、すべては神の意志のうちにある。イエスが「わたしのうちで告白する者は誰でも、その人のうちでわたしは告白するであろう。」と言うのも同じことである。イエスのうちにあるならば、イエスもその人のうちに生きている。すべてはイエスとの関係の下に、イエスと同じものになって行くのである。

あなたがたは、あなたがたのうちなるイエスの告白を経験する者となるであろう、今、イエスのうちにあるならば。イエスが与え給う信仰のうちにあるならば、イエスは死を越えて、あなたのうちに生きてくださる。あなたはイエスのもの。神の顧みを生きたイエスのもの。括られざる一なるあなたを、感謝して生きていこう。

祈ります。