2014年7月20日 末竹十大牧師
「命の剣」
マタイによる福音書10章34節〜39節
「自分の魂を見出す者はそれを破壊するであろう。そして、わたしのゆえに自分の魂を破壊する者はそれを見出すであろう。」とイエスは言う。「魂」と訳されるプシュケーは、確かに「命」とも訳される。しかし、「魂」とは自分自身そのものであり、自分という存在を表している。自分の魂を見出すということは、「自分の命を得る」ということであろうか。自分が死なないようにすることであろうか。自分の魂とは得るものなのか。それとも、見出すものなのか。ギリシア語原文では「自分の魂を見出す」と言われているのだから、探して見出すのである。「自分の魂」、自分自身そのものを探すということはどういうことであろうか。
探しているということは、失っていると思っているからである。探して見出すことができると思っていて、見出したと思っているのである。そのとき、自分の魂はどこにあるのだろうか。自分の魂を探している自分は自分ではないのか。魂を見失った自分は自分ではないのか。いや、探している以上、自分が探しているのである。自分が自分を探している。探している自分が自分であることを見失っているがゆえに、その自分は自分ではないと思って、探しているのである。その人は、失っているのだ、自分自身を。自分の魂を失っているのだ。だからこそ、探して、見出したと思っている自分の魂は、実は自分ではないのだ。それゆえに、その人は破壊している、自分の魂を。失ったと思い、探している自分が自分なのだから、自分を破壊しているのである。
では、自分の魂を破壊するとは、どういうことなのか。自分で自分の魂を破壊することはないと我々は考える。誰でも自分の魂を大切にしていると思っている。ところが、自分の魂を大切にして、自分自身を破壊するのが人間なのである。魂を破壊するのは、魂を持っている人間である。魂があるのに、ないと思って、自分の魂を探している人間が、自分の魂を見出したと考えるとき、その人は探している自分を破壊しているのだ。何故なら、探している自分が自分なのだから。自分の魂は、探している自分なのだから。その魂を失って、探し出した、見出したと思っているならば、そこにその人の魂はないのだ。何故なら、魂は「命」と訳されるように、その人自身だからである。それゆえに、魂は破壊されてしまっている、探している時点で。そして、見出したと思っても、自分の外に見出すので、その人の自分の魂ではないことになる。それゆえに、見出したと思う人は破壊しているのだ、自分の魂を。
ところが、イエスは言うのだ。「わたしのゆえに、自分の魂を破壊する者は見出すであろう、それを。」と。ということは、イエスのゆえに自分の魂を破壊するということが重要なのである。そのときには、その人は自分の魂を見出すであろうと言われているからである。しかし、見出す時点で、すでに破壊しているのだから、見出そうと探しているわけではない。それゆえに、その人は見出したと思ってはいないのではないのか。それでも、見出すであろうとイエスは言うのである。では、イエスのゆえに、自分の魂を破壊するとはどういうことであろうか。
それが、イエスが言う、「わたしよりも父や母を愛する」ということの反対である。イエス以外の存在を愛さないということである。イエスだけがわたしのすべてであると生きることである。それこそが、イエスのゆえに自分の魂を破壊することだとイエスは言うのである。それが、家族との敵対であり、イエスが投げる剣である。
我々人間は、家族こそが重要だと考える。家族のためならば命も捨てるということがある。それほどまでに、我々には家族が重要である。しかし、イエスよりも家族が重要であるならば、その人の魂は家族である。イエスは、その人の家族以下の存在であり、イエスがその人の魂となることはないのだ。そのとき、自分の魂を見出すということは、家族を見出すことになる。家族がわたしのすべてになる。こうして、我々はイエスを捨てるのである。そして、自分の魂を破壊するのである。
イエスこそ、わたしの魂、わたしそのものだとイエスに依り頼む人間は、その人自身を生きているわけではない。イエスを生きているのだ。イエスを生きるということは、イエスがその人のうちで生きることである。従って、イエスがその人のうちで生きている限り、イエスがその人の魂であり、大切なお方として受け取られていることになるのだ。何故なら、その人は自分で生きているのではなく、イエスのうちに生きているからである。
この直前の箇所で、イエスはこうおっしゃっている。「人間たちの前で、わたしのうちにあって、告白するであろうすべての者は、わたしもまた告白するであろう、彼のうちにあって、天におけるわたしの父の前で。」と。そこでは、イエスのうちにある存在のうちに、イエスがおられると言われているのだ。つまり、イエスと人間との相互内在である。この相互内在があってこそ、その人の魂は破壊されているが、イエスのうちで破壊されていないのである。イエスのうちにその人の魂があり、その人の魂をイエスが生かしているのである。その人は、イエスのうちに生きることにおいて、自分の魂を破壊している。しかし、イエスのうちに生きることによって、イエスがその人のうちに生きる。つまり、イエスがその人を生かす。その人の魂は破壊されず、命に至る。何故なら、その人は自分を破壊し、イエスのうちに生きているからである。それゆえに、イエスがその人のうちに生きているのである。そして、生きているイエスがその人を失わせない魂となっているのである。
イエスはそのようなお方として来られた。それゆえに、命の剣なのである。その人を他の誰にも渡さないで、他の人間を剣で切り離すイエス。このお方がおられてこそ、我々は自分の魂を破壊し、見出すのである、イエスご自身として。従って、我々の魂はイエスである。イエスこそ、わたし自身をわたし自身とするお方である。イエスがわたしの魂であるように生きてくださるのだから、わたしは自分の魂を破壊しても見出すのである、イエスのうちにあるわたしを。これこそが、命の剣であるイエスであり、十字架のイエスである。
十字架のイエスは、わたしの魂を破壊する剣である。わたしを他の人間から分離する剣である。イエスこそ、わたしを生かす命の剣である。何故なら、イエスの十字架を通して、わたしはわたしであることを見出すからである。わたしの魂を探しているわたしがわたしであると見出すのである。イエスはわたしを生かしているお方であることを見出すのだから、わたしはわたしを見出すのではなく、イエスゆえのわたしを見出すのである。そのとき、わたしはイエスのうちで、わたしの魂を破壊している。しかし、わたしのうちでイエスが生きている。わたしの魂であるイエスが生きている。こうして、わたしはイエスと相互内在する魂として、生かされていることを見出すのである。そのとき、見出したわたしはイエスゆえのわたしである。十字架ゆえのわたしである。イエスの死ゆえのわたしである。単独のわたし自身ではなく、イエスゆえのわたし自身である。それゆえに、わたし自身を探していたわたしがわたしの魂であることを見出すのである。イエスが、わたしを探してくださっていたことを見出すからである。こうして、わたしはイエスゆえにわたしである。イエスゆえにわたしを生きる。イエスゆえにわたしの魂を見出す。決して失われない、破壊されない魂を見出すのだ、イエスこそわたしの魂だと。イエスこそ、わたし自身なのだと。使徒パウロがローマの信徒への手紙6章6節で言う如く、イエスと共に、わたしが十字架に付けられているのだ。
罪深きわたしが十字架につけられ、罪深きわたしを愛するイエスと共に生きるのである、イエスのうちに。そのために、イエスはご自分の体と血を与え給う。あなたのうちにわたしは生きるのだと与え給う。あなたはわたしのうちに生きるのだと与え給う。感謝して受け、キリストに生きていただこう。あなたを他の者から切り離し、ご自分のものとし給う命の剣があなたを生かすのだから。
祈ります。
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