2014年7月27日 末竹十大牧師
「カイロスへの応答」
マタイによる福音書11章25節〜30節
「わたしもまた、あなたがたを休ませるだろう。」とイエスは言う。「わたしもまた」と言うのである。イエスが「わたしもまた」と言うということは、他に誰かあなたがたを休ませるお方がいるということである。新共同訳は「休ませてあげよう」と訳しているが、これは「わたしもまた」を省いている。何故か。他に誰がいるのかと考えるからである。他にいるとすれば、イエスの父なる神でしかない。しかも、イエスが「休ませるだろう」と言う「休み」とは、一時的な休止であり、永遠の安息のことではない。それゆえに、イエスは「わたしもまた」と言うのではないのか。何故なら、永遠の安息は父なる神だけが与えるものだからである。イエスが与える休みは一時的である。一時的に休んで、再び働くことができるようにする休みを与えるのが、イエスなのである。それゆえに、イエスは「わたしのところに来なさい、すべての疲れている者、重荷を負っている者は。」と言うのである。「わたしの軛を取りなさい。そして、わたしから学びなさい。」と言うのである。イエスのところに来て、一時的に休み、イエスのくびきを負い、イエスから学ぶのである。そうしてこそ、イエスに従うことが実現するのでもある。
さらに、イエスは言う。「何故なら、わたしは柔和で、心の低き者だから。そして、あなたがたは見出すであろう、あなたがたの魂に、一時的な休みを。」と。イエスのくびきを負い、イエスに学ぶことによって、我々が自分の魂に一時的な休みを見出すのだと言うのである。これは、どういうことであろうか。
魂に永遠の休み、安息を見出すというのであれば、分かる気がする。しかし、一時的な休みを見出すというのである。一時的な休みであれば、なくても良いのではないのか。我々が求めているのは永遠の安息なのではないのか。ところが、我々は一時的にでも休みを与えられればと思っている。一時的な休みさえもない状態にある存在が求めるのは、せめて一時的な休みなのである。
一時的な休みが何故必要なのかと言えば、そこから再び立っていくためである。実は、父なる神もこの一時的な休みを与えているのである。しかし、受け取ることができない人間に、イエスは言うのだ。「わたしもまた、あなたがたを休ませるだろう。」と。父なる神も、永遠の安息に入って欲しいのだ。そのために、一時的休みを与えて、永遠の安息を目指して歩み続ける力を回復してくださる。ところが、人間はその一時的休みを受け取らない。それゆえに、父はイエスを遣わしたのである。
そうであれば、イエスが与える休みは、父が与える休みである。そこから永遠の安息に向かって歩み出す力を与える休みである。このイエスの与える休みが、今日イエスに啓示されたのである。「そのカイロスにおいて」啓示されたのである。カイロスとは、神が介入する時であり、すべてが充填されている時である。そのカイロスにおいて、イエスが「答えて言った」と言われているのだ。新共同訳は、「そのとき、イエスはこう言われた。」としか訳していない。原文は、「そのカイロスにおいて、答えて、イエスは言った。」である。その神の介入の時において、イエスは答えたと言われているのだ。何に答えたのか。神の介入に対してである。カイロスに対して、イエスは答えて、言ったのである。その言葉が、25節から27節に記されている言葉である。そこでは「啓示」について語られている。つまり、イエスはカイロスにおいて父から啓示されたのである。それゆえに、「わたしもまた」と言うのである。しかし、何を啓示されたのかは「これらのこと」と言われているだけである。「これらのこと」とはいったい何か。それは、直前の箇所でイエスが叱る言葉である。多くの神の可能とする力が行われてもなお、聞きいれないティルスやシドンに対して嘆く言葉である。神の力を蔑ろにする人間に対する裁きの言葉である。裁きの言葉を語ったイエスが、そのカイロスにおいて、答えて言うのである。
ということは、イエスが示されたのは、神の力が行われても、聞く耳を持たない人間は悔い改めることはないということである。イエスに与えられた啓示が、幼子のような者に与えられたと言われているのは、素直に耳を傾ける者ということである。イエスご自身が幼子のようなお方であり、イエスはカイロスを神の介入の時として受け取り、その出来事に対して答えて言うのである、神への讃美を。
そうして、すべてがわたしに引き渡されているとイエスは受け取った。それゆえに、「わたしのところに来なさい」と言って、「わたしもまたあなたがたを休ませるであろう」と言うのである。従って、父からの啓示に基づいて、イエスは「わたしもまた」と答えているのである。ということは、「わたしもまた」とは、イエスの父から引き渡されたすべての職務に対する言葉である。イエスは、わたしもまた、父と同じように、あなたがたを休ませるであろうと、自らに引き渡された職務について語るのである。それが「わたしの軛を負わせること」である。
イエスの軛とはいったい何か。もちろん、十字架である。イエスが負っている軛は、十字架なのである。イエスの十字架を負うならば、我々は一時的な休みが与えられ、そこから再び立っていくことができるのである。それが「わたしの魂の休みを見出すこと」なのである。
休みは、身体的な休みに見出されるのではなく、休みがないところに見出される。軛を負うことに見出される。そして、軛を負うことで、魂が休むとすれば、イエスの軛が魂に休みを与えるものだということになるのだ。従って、十字架こそ、魂に一時的な休みを与え、再び立っていく力を起こす神の業なのである。十字架に神の業を見出すには、幼子のような者への啓示しかないのだ。知恵があっても見出せないのだ。ただ幼子のように聞く耳を開かれた者にしか見出せないのである。これは、人間がどれだけ説明しても無理なのだ。ただ、神の啓示のみがそれを受け取らせるのである。
誰もが、身体的な労苦を負っている。重荷を負い、疲れ果てている。重荷が取り除かれ、身体的に休みが与えられれば、回復できるように思える。ところが、人間は魂の一時的休息がなければ、回復されないのだ。身体的に休んでも、魂が休んでいなければ、力は回復されない。むしろ、身体的に休みがなくとも、魂が休んでいるということもあるのだ。それこそが、十字架なのである。
十字架は、身体的に極限に追い詰められた究極の労苦である。死に至る労苦である。それにも関わらず、イエスは生きておられる。それにも関わらず、イエスは働いておられる。それにも関わらず、イエスは引き受けておられる。引き受けにおいて、魂の休みが与えられているのである。それゆえに、そのカイロスにおいて、答えたイエスなのである。イエスが啓示を受け、引き受け、すべてを引き渡された者として、生きようとしたそのカイロス。このカイロスにおいて、イエスはすべてを引き渡されて生きている。身体的には休みがないように思える引き渡しにおいて、イエスは休みを得ている、魂に。何故なら、引き受けているからである。受け取っているからである。引き受け、受け取るとき、我々は魂に休みを与えられているのである。イエスが十字架を引き受けたように。そして、イエスが十字架の上で生きたように。
イエスの軛が負いやすく、荷が軽いのは、イエスが引き受けているからである。イエスゆえに引き受けて生きるならば、イエスの十字架の力があなたを包むのである。それゆえに、魂には一時的な休みが与えられ、継続して担う力となって行くのである。十字架こそが、イエスが与えようと言う休みなのである。十字架に休みを見出す者は、神のカイロスのうちで啓示を受け取っているのだ。あなたは、カイロスへの応答を生きることができる。イエスが応答されたように、あなたも生きることができる、「わたしもまた、あなたがたを休ませるであろう」と言われるイエスのうちに生きるならば。そのように生きる者は、父なる神の啓示を受け取った幼子のような者なのである。あなたがたは、幼子のように生きるのだ、イエスと同じ軛を負って。
祈ります。
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