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2014年8月3日 末竹十大牧師


「ハル・ヤーウェ」

ミカ書4章1節〜5節、エフェソの信徒への手紙2章13節〜18節、ヨハネによる福音書15章9節〜12節

 

預言者ミカは語る。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。」と多くの民がやって来て言うと。「主の山」とは、ヘブライ語でハル・ヤーウェ、「ヤーウェの山」である。ヤーウェが顕現する山、それが主の神殿の山、ヤーウェの家がある山なのである。

ハル・ヤーウェ。この言葉は、おそらくハル・メギドと対比されている言葉である。ヨハネの黙示録1616節に出てくる「ハルマゲドン」の語源である「ハル・メギド」。そこではこう言われている。「汚れた霊どもは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に、王たちを集めた。」と。このハル・メギドと対比されているのがハル・ヤーウェである。ハル・ヤーウェは平和の山であり、ヤーウェのシャロームが支配する山である。反対に、ハル・メギドは戦いの山、争いの山、世界最終戦争の山を意味している。

ハル・メギドは、アッシリアが台頭して来た時代に、エジプトのファラオ、ネコがアッシリアへと進軍するとき、当時の南ユダの王ヨシヤがネコを迎え撃ち、死んだ平野である。それが後に、山として語られることになった。このハル・メギドは、黙示文学の中で、世界の終わりのときに諸国の王たちが闘う場所と考えられるようになった。ハル・メギドは戦いの場所、ハル・ヤーウェは平和の場所。戦を学ぶことはない山、ハル・ヤーウェ。このハル・ヤーウェが、諸国の王の神が住まう山々の中で頭として堅く立つのだと、ミカは語る。そのようにして、世界はヤーウェの山によって支配され、平和の山によって平定されると。

そのときには、「すべての民は人として歩む、彼らの神の名のうちで。そして、我々は歩む、我々の神ヤーウェの名のうちで、これまでもこれからも。」とミカは語るのである。これこそが、平和なのだと。これこそがヤーウェが来ます日、終わりの日なのだと。つまり、すべての民がヤーウェの名のうちで歩むわけではないのだ。しかし、それぞれの神がヤーウェの下に跪いているのだから、その神を信じる者たちは、究極的にヤーウェの名のうちで歩むのである。

すべての民がヤーウェを信じるわけではないとミカは語っている。これは、我々にとって、不可思議な思想である。何故なら、ヤーウェの支配だけがすべてであると我々は信じているからである。信じない民を打ち負かすのがヤーウェであると思っているからである。ところが、ヤーウェは他の神々を信じる民をもご自分の下に従わせるお方だとミカは語るのである。ヤーウェは、全体主義の神ではないのだと。

確かに、ユダヤ教においては、全員一致はおかしいと考えられる。何か不正が行われていると考えられる。全員が一致するはずがないのだと。そうである。我々は、皆が同じ考えになることはない。不一致があってこそ、それぞれの立場が守られるのでもある。しかし、同じ神の下では不一致があるわけではない。同じ神を仰いでいるのだから。日常生活においては不一致や利害の対立は生じるであろう。そこにおいて、敵を愛せとのイエスの言葉も響いてくるのである。

全体を同じようにさせようとすることは、全体主義に陥る。しかし、それぞれに在り方が違うのだと受け入れるならば、そこでは違いは違いとして認められる。それぞれの在り方を認めることは必要である。それゆえに、ミカは各々の信仰を否定はしない。しかし、その頭はヤーウェであると宣言するのである。何故なら、ヤーウェこそはあるものをあらしめる神だと信じているからである。この世界を創造したお方だからである。

この信仰がなければ、他の神々に心惹かれていくであろう。イスラエルの民もそのように心惹かれていったのだ。心惹かれる者は、いつまでも心定まらず、あちらの神、こちらの神と渡り歩く。神に心惹かれているのではなく、人々の生活に心惹かれているからである。人間に惹かれる者は、人間に躓き、より良き人間関係を求めて、さまよい歩く。そして、神を捨てるのである。それでもなお、ご自身の憐れみゆえに、イスラエルを顧みる神がおられる。この神によってこそ、ハル・ヤーウェで平和を生きる民が生じるのである。そのような神ヤーウェがいます山、ハル・ヤーウェは平和の象徴である。

すべての民をご自分の民として慈しみ、それぞれの信仰を否定することはない神ヤーウェ。このお方こそ、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、義なる者にも不義なる者にも雨を降らせる神である。ヤーウェは、人間が死ぬことを望んではいないのだから。人間が生きることを望んでいるのだから。それでも、人間がヤーウェのうちから出て、人間の世界に生きるならば、自ら死の中に入ってしまうであろう。それゆえに、ヤーウェの山、ハル・ヤーウェとしてすべての山々を統御する神なのである、他の神々を信じる者たちも受け入れて。しかし、イスラエルに対しては、ご自身を現したお方なのだから、ヤーウェの民とされた自覚を求められる。ヤーウェがエジプトから救い出し、約束の地へと導き給うた民なのだから。ヤーウェは他の民にも生きることを望む、イスラエルを救い、生かしたように。殺し合うことは、ヤーウェの山ではあり得ないのだ。ヤーウェの山にはすべての民が集められるのだから。ハル・ヤーウェは平和の山、シャロームの山である。完全なる山、ハル・ヤーウェこそ、キリストの十字架を起こす神の意志である。

何故なら、キリストこそわたしたちの平和だからである。キリストを十字架に架けてまで、すべての民を救おうと意志された神なのだから。信じようと信じまいと、救いを確立した神ヤーウェ。このお方が、確立した救いを自らの救いとして生きるならば、永遠に救われる。しかし、このお方の救いを拒否するならば、その人は救いの外に自ら出てしまうのだ。結局、ヤーウェを信じなければ救われないのだろうか。そうであるが、そうでもない。

ヤーウェを信じることは、ヤーウェの愛を信じることである。ヤーウェがイエスを愛し、イエスが弟子たちを愛した愛を信じることである。逃げ去る弟子たちさえも愛するイエスと父なる神がおられる。彼らも救いに入れられている。拒否する者も入れられている。イエスを殺害した者のためにも、イエスは死んだのだから。そうであれば、イエスを殺害した者が、イエスに愛されていたと受け入れるならば、イエスの愛、父なる神の愛を受け入れているのである。そのときには、その人はヤーウェのうちに生きている。イエスのうちに生きている。そして、イエスと共に生きている。

互いに愛し合うとは、互いに認め合い、互いが生きることを望むことである。父なる神もイエスが生きることを望むゆえに、復活させ給うたのだ。イエスが父なる神の愛のうちに生きていたからである。同じように、我々も互いに愛し合い、認め合い、生きることを望むならば、イエスと父との関係の中に生きている。そのような愛の関係を生きるようにとイエスは弟子たちに命じられる。この命令において、ハル・ヤーウェは生きている。ヤーウェの山の平和は生きている。わたしたちの平和であるキリストが生きている。イエスを十字架に架けてまで、我々を生かそうとする神ヤーウェの愛が生きている。この愛の中でこそ、我々は聖餐に与るのである。

キリストの死が、我々の平和である。二つのものを一なる新しい体として造る平和である。キリストを仰ぐ者を一なる体とする平和である。ミカが語るハル・ヤーウェの平和である。聖餐において、キリストの死が我々を一なる体とする。キリストの体と血が一なる体、キリストの体を形作る。我々が、それぞれに生かされ、互いに生かし合い、一なる体を生きるようにと、差し出されるキリストの体と血。この恵みの賜物に与り、キリストの体として形作られるわたしたちを生きていこう。

キリストはわたしたちの平和。ハル・ヤーウェはわたしたちの平和。イエスと父との愛の中で、我々は一なる体とされて、平和を生きるのである。感謝して受け、キリストに生きていただこう、わたしたちのうちに。

祈ります。