2014年8月10日 末竹十大牧師
「吐き出す神」
マタイによる福音書13章24節~35節
「わたしは開くであろう、たとえにおいて、わたしの口を。そして、わたしは吐き出すであろう、隠れてしまっているものを、世の創造からの。」と、詩編の言が満たされたとマタイは語る。詩編78編2節のヘブライ語原文では、「わたしは開くであろう、たとえにおいて、わたしの口を。わたしは溢れ出すであろう、謎を、古き日々からの。」となっている。マタイは、ギリシア語旧約聖書の引用ではなく、ヘブライ語原文を新たに訳し直しているのだ。ヘブライ語の「謎」を「隠れてしまっているもの」と訳し、「溢れ出す」を「吐き出す」と訳している。誤ってギリシア語訳されたのだと言う者もいる。しかし、溢れ出すにしても、吐き出すにしても、同じである。何故なら、うちにあるものが溢れ出すのであり、そのままのものを吐き出すからである。つまり、詩編の作者は、たとえにおいてはそのままのものが吐き出されるのであり、溢れ出すのだと理解しているのだ。マタイもそのように理解したのだ。イエスのたとえは、そのままであり、あるがままに聞かなければならないと理解しているのである。
たとえという言葉は、「傍に投げる」という言葉である。本来ならば、本体であるものの傍に投げられて、それに似ている本体が示されるのが「たとえ」というものである。本体を直接的に示すことはなく、間接的に示すのが「たとえ」なのである。ところが、イエスのたとえはそうではなく、神のうちに隠されてしまっているものが、あるがままに吐き出されることだとマタイは理解している。たとえは、似ているものではなく、そのままのものなのだと。ということは、たとえで良く理解できるようになるのではない。身近なものでたとえられて、分かりやすくなるということではない。たとえを聞いても、良く分からないのが、イエスのたとえなのである。何故なら、「隠れてしまっているもの」そのものだから。それは「隠れてしまっているもの」そのままに、開かれた神の口から吐き出されているのである。謎のままに吐き出されている謎は、謎のままである。それは理解されないまま、隠れてしまっているまま、イエスの口から吐き出されてくる。これがイエスのたとえなのである。
イエスのたとえを読むと、我々は分かったような気になる。毒麦のたとえもからし種、パン種のたとえも、卑近な事柄だから分かるように思えるだけである。しかし、それが何を語っているかは、依然分からないままに、ただ吐き出されているのだ。吐き出されているものを、我々は如何に解釈するかを考える。そして、結局、自分の卑近な事柄に差し戻して、似ていることで理解しようとする。ところが、たとえが本体ではなく似ているものであるならば、似ているものを似ているもので置き換えているのだから、本体から二重に離れているのである。では、イエスのたとえをそのままに読めば分かるのだろうか。
いや、理解しようということ自体が傲慢なのである。神の事柄は隠れてしまっているのだから、神が隠し給うたのだ。隠れてしまっているものは隠れてしまっているままでなければならない。何故なら、神は我々から隠そうとしておられるのだから。それを理解したところで、我々がどうにかなるわけではない。我々がより良き存在になるわけではない。我々が神に等しくなるのでもない。むしろ、神の事柄を理解したと思うことで、神から離れてしまうのだ。従って、13章14節~15節で引用されているイザヤ書の言葉のように、理解させないために語られるたとえであるのと同じことなのである。イエスは、たとえにおいてただ吐き出しているのだ、神が隠してしまっているものを。
イエスは何故そのようなことをするのだろうか。隠れてしまっているものを吐き出して、どうするのだろうか。隠れてしまっているものが隠れてしまっているままに吐き出されるのであれば、人間には理解できないこととしてあるのだ。それがイエスがたとえにおいて語るということなのである。結局、イエスが語るたとえを人間は理解できないと受け入れることが重要なのである。何故なら、イエスは理解することを求めて、語っているのではないからである。では、何のためにイエスはたとえを語るのであろうか。
毒麦のたとえのように、最後まで人間が手をつけないようにするためである。人間が手をつけることほど最悪なことはないからである。人間が手をつけず、人間が把握せず、人間が分からなくなる。そうしてこそ、人間は神の隠れた事柄をあるがままに受け入れざるを得ないようにされる。これが我々が罪を犯す前の姿なのである。我々は罪を犯したとき、神の言を蛇が解釈することで理解し、判断し、自分で神の言を把握したと思った。ところが、罪を犯す前は、そうではなかったのだ。アダムとエヴァの二人は、裸であっても恥ずかしいという判断が入り込んではいなかったのだ。この判断を離れることによって、我々は罪から解放されると言える。そのために、イエスは我々が分からなくなるように、ありのままを受け入れるようにと導き給う。
我々が何かを理解したと思った瞬間、我々は自分がすべてを理解し、判断し、遂行することができると思い込む。こうして、我々は神の支配から脱け出してしまうのである。そのとき、我々にとって神などいなくとも良いことになる。我々は、神を捨て、自分を絶対化してしまう。神の事柄をすべて把握し、制御できると思ってしまうからである。このような知恵こそが我々を神から引き剥がし、神を捨てるように導くのである。それゆえに、謎は謎のままでなければならない。隠れてしまっているものは、隠れてしまっているままでなければならない。謎を解くことで、我々は自らに禍を招くのだ。罪を引き寄せるのだ。
蛇に唆され、神の言を理解したと思った瞬間、アダムとエヴァは自らの罪を引き寄せたのだ。それゆえに、謎は謎のままでなければならない。隠れてしまっているのだから、隠れたままでなければならない。神の事柄は人間の事柄ではないのだ。人間の知恵では理解不能なのだ。人間が理解しても、何も良いことはない。ただ、罪が生じるだけである、アダムとエヴァのように。
からし種は小さいが大きくなる。パン種は少ないがパンを膨らませる。からし種とパン種はまったく別のことを語っている。自らが大きくなることと、何かを膨らませ大きくすること。それがどちらも天の国だとイエスは言うのである。これは理解できないことである。どちらか一方ではないのだから。従って、イエスはたとえで分からなくしてしまったのだ、神の事柄を。それこそが吐き出す神の業である。
天の国はどちらか一方に還元できないものである。どちらでもあり、どちらでもない。それゆえに、我々は神の裁きまで待たねばならないのだ、毒麦のたとえのように。このたとえにおいて口を開く神は、吐き出している、イエスの十字架を。イエスの十字架も結局、隠されてしまっている。謎として隠されてしまっているのだ。十字架をあるがままに受け入れる者は、信仰を起こされている。そして、神のものとして生きている。しかし、十字架を合理的に理解しようとし、復活を誰にでも分かるように証明しようとするならば、人間の理解に貶めてしまう。神の事柄を人間の事柄にしてしまうのだ。神の事柄の傍に投げられた人間の事柄が神の事柄を指し示しているのに、神の事柄を受け入れないようになってしまうのである。十字架を人間の事柄として理解しようとする人間は十字架をあるがままに受け入れない。
十字架はあるがままに受け入れるようにと、神が吐き出しているたとえである。これを吐き出されたままに受け入れる者が信仰者である。この世界も、あるがままに受け入れるべき神の世界である。このわたし自身も、あるがままに受け入れるべきわたしなのである。神が吐き出したわたしなのだ。神が造られたままのわたしを生きること。それがイエスのたとえが語っていることである。そのように受け入れる者に幸いあれ。あなたが吐き出されたままに自らを生きるようにと、キリストは十字架を負われたのだから。
祈ります。
|