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2014年8月17日 末竹十大牧師

「共にある存在」

マタイによる福音書13章44節〜52節

「天の国に弟子となったすべての律法学者たちは家の主人である人間と同じである。その人は、彼の宝の蔵から、質的に新しいものと時間的に古いものを投げ出している。」とイエスは言う。「質的に新しいもの」と「時間的に古いもの」は、同じ次元ではない。違う次元のものを投げ出しているとイエスは言う。これは、先の「吐き出す神」と同じことなのであろうか。吐き出すことも、投げ出すことも、人間が手を加えずに吐き出し、投げ出すものである。だとすれば、これは単に「新しいものと古いもの」という並列的なものがそのままに投げ出されることではない。次元の違うものが投げ出される、一人の家の主人によって。その主人は家を管理する主人である。管理者は、宝の蔵に収められているものをすべて把握している。時間的な次元で言えば、時間的に古いものの方が時間的に新しいものよりも価値があるものである。まして、宝の蔵に収められていたのであれば、古いものの方が良いに決まっている。時間的に古くなったものは、時の経過によって価値が増加しているからである。保持されていた時間的古さは、質的新しさと同じような価値を持っているものである。もはや手に入らないからである。

同様に、質的に新しいものは、誰でも手に入れられるものではない。時間的に新しいものとは、質的に違うからである。時間的に新しいものは、誰でも手に入れられる。しかし、質的に新しいものは次元が違うのだから、誰でも手に入れるということにはならない。これが「畑の宝」であり、「高価な真珠」である。どちらも時間的に古いものである。そして、質的に新しいものである。何故なら、誰もが手に入れることができるものではないからである。しかし、これらのものは誰かが所有するようなものでもないのだ。何故なら、共にあるものだからである。

畑の宝も高価な真珠も、持っているものを売り払うほどに、価値があると思える。ところが、それは誰にも価値があると分からないままに、見つけた人にだけ価値があるものと見えたのである。そうでなければ、誰もが持ち物を売り払って、競って買うだろうから。従って、どちらも誰にでも価値があるとは分からないものなのである。見る目がなければ見つけることができないものなのである。それゆえに、「耳のある者が聞きなさい」とイエスは先に言ったのだ。

質的に新しいものは、質的な新しさを理解する者にしか理解できない。それが、時間的に古いものと同じように宝の蔵に入れられている。入れられた時点では、家の主人はそれが質的に新しいとは思っていなかったであろう。ところが、宝の蔵から投げ出すとき、質的に新しいものと時間的に古いものが見えるのである。それらは今までもあったのであり、これからもあるであろう。ということは、質的新しさと時間的古さは、家の主人にとっては同じ次元に属するのだ。何故なら、今まであったのに、あったと気づかなかったのであり、あるがゆえに投げ出すことができるからである。それは家の主人と共にあったのだ。そして、これからも共にあるのだ。それが天の国に弟子となることであるとイエスは言う。

天の国に弟子となるとは、宝の蔵から投げ出すことだとイエスは言うのだ。それは、ありのままに投げ出され、あったものが投げ出されることである。なかったものは何一つない。宝の蔵にはすべてが収められている。その家の宝が収められている。宝と認識されていたものが収められている。そうであれば、収められているものは、家の主人が分かっているものであり、あるがままに価値があるものである。それなのに、見つけ出す畑の宝と高価な真珠と同じく、見つけ出されるものである。あったのに、見つけ出される。あるがままなのに、見つけ出される。誰もが価値を認識しないがゆえに、見つけ出される。家の主人は、宝の蔵に収めたのだから、宝だと分かっている。質的に新しいものも、時間的に古いものも、家の主人は分かっている。それは、あるがままに投げ出されるがゆえに、価値があると分かっているから投げ出すのだ。今まで収めていたものなのに、何故に投げ出すのだろうか。

それらの宝は、誰もが手に入れられるものではないがゆえに、投げ出される。誰もが価値を認識できないがゆえに、投げ出される。家の主人も自らの所有とはしないがゆえに、投げ出すのだ。投げ出すがゆえに、主人の所有を離れる。そして、すべての人間と共にある存在となる。これが質的に新しいものと時間的に古いものである。畑の宝と高価な真珠である。そして、網に共に集められる魚たちである。

魚たちは、共に集められる、網の中に。良いものと悪いものが共に集められる。それらは、誰もが集めることができるものである。共にあるからである。共にある存在は、誰でも集めることができるのだ。網は共にある存在を否応なく共に集めるのだ。これも天の国だとイエスは言う。共にある存在を共にあるままに集めるのが網。共にある存在が集められるが、共にある存在は単独であることはない。我々人間も、この世のすべては共にある存在である。共になければ、この世にはないからである。何故なら、単独である存在は、この世の中に存在し得ないからである。この世は、網に共に集められる存在である。ところが、そこには良いものと悪いものが共にあるのだから、最後には分けられるのは必然である。毒麦のたとえのように、最後に分けるのは神である。「義人たちのただ中から悪しき者たちを分ける」と言われている。毒麦のたとえでも、大半は良い麦なのだ。その中に、毒麦が紛れ込むという表象である。網の中にも、良いものに混ざって悪しきものが共に集められる。そして、共にあるがゆえに共に集める網は、あるようにあることを最後まで認める天の父の意志である。父なる神に従う者と従わない者が共にある存在である。

悪しきものがあるがゆえに、良きものがある。良きものがあるがゆえに、悪しきものがある。互いに共にあるがゆえに、最後に分けられるのでもある。この共にあること自体は、誰も選べない。誰であろうとも、共にあるように自らがなるのではなく、共にあるように造られたのである、神によって。それゆえに、共にあることを受け入れることこそが、天の国にある存在の在り方である。悪しきものは、共にあることを受け入れないのだ。何故なら、自分たちを良きものとして、他者と分けてしまうからである。他者が悪しきものであり、自分たちとは違うのだと断定してしまうのである。あるがままに投げ出すことはない。そこにこそ、共にある存在を共にある存在として生き得ない罪がある。

イエスの十字架は、共にある存在を受け入れ、悪しき者たちをあるがままに受け入れている。彼らが十字架につけることを引き受けている。十字架を引き受けることにおいて、イエスは宝の蔵から、質的に新しいものと時間的に古いものを投げ出している。イエスの十字架において、すべてがあるように投げ出されている。投げ出されている存在が、自らの罪を認識し、イエスを十字架に架けた自らを知るとき、イエスと共にある自らを見出す。イエスと共に死んだ自らを見出す。イエスと共に起こされる自らを認識する。究極的他者であるイエスと共にあることで、自然的他者をあるがままに受け入れる者とされる。イエスがすべてを受け入れたように、共にある存在すべてを受け入れるからである。

自らが分けてしまう罪に支配されていることを知る者は、共にある存在を受け入れる、イエスによって。イエスが、このわたしの罪のために差し出し給う体と血をありのままに受ける。このわたしは、イエスが共にある存在として、質的に新しく、時間的に古いものを生きるのである。あるがまま、ありのまま、造られたまま、神の意志に従って、生きるのだ。イエスは、あなたが投げ出されている者として生きるために、ご自身の体と血を投げ出し給う。あなたのために投げ出されたイエスの体と血は、あなたを投げ出された者として造り、共にある存在として生かしてくださる。イエスと共に、すべての他者と共にある存在として生きていこう。あるようにある、共にある存在として、あなたのうちにイエスが生きてくださるのだから。

祈ります。