日本福音ルーテル教会 希望教会 証する信徒・教会になろう















 ルーテル教会は、マルチン・ルターの宗教改革により生まれたキリスト教プロテスタント教会です。人は信仰のみにより神より義とされ、恵みのみ、信仰のみ、みことばのみという改革の精神を大切にします。

Copyright(C)Kibou Church,Aichi Japan All Rights Reserved.

2014年8月24日 末竹十大牧師


「贈与の満たし」

マタイによる福音書14章13節〜21節

 

「彼らは出ていく必要はない。与えなさい、彼らに、あなたがたが、食べることを。」とイエスは言う。「与えなさい」と言うのである。それに対して、弟子たちは言う。「わたしたちは持っていません、ここには。五つのパンと二匹の魚以外には。」と。弟子たちは「与えなさい」と言われて、「持っていない」と答えている。つまり、与えるには持っていなければならないと言っているのである。しかし、そうなのか。持っているから与えられる。これは、自然的人間が考えることである。誰かに与えるには、わたしが持っている必要がある。しかも、余剰に持っている必要があるのだ。わたしの分しかないのであれば、与えることはできないと人間は考えるのである。それは、結局、自分を第一とする思考である。まず、わたしが満腹して、余ったものを人に与えようということである。それならば、誰でもできることである。誰でも考えることである。それゆえに、弟子たちは「わたしたちは持っていない、ここには。五つのパンと二匹の魚以外には」と言ったのである。イエスはそのようなことを求めたのではない。ただ「与えなさい」と言ったのだ。これは、どういうことであろうか。持っていないのに、「与えなさい」と言うイエスは、おかしいのではないかと思える。余分に持っている人が与えれば良いではないかと考える。そうでなければ、わたしは我慢して、他者に与えるということになる。そこまでするつもりはないのが、弟子たちなのである。

だからこそ、「群衆を解放してください。」と言う。「彼らが村々へ出ていって、自分たち自身に、彼らがパンを買うために。」と。弟子たちは、群衆のことを考えているように思える。買うために、群衆を解放してくれと言うのだから。しかし、イエスはその思いが、自分のことしか考えていないことを見抜いておられる。我々は、いつも自分のことをまず考える。自分の利益を確保してから、他者のために何かしましょうと考える。それが、他者のためを考える良い人間だと思い込んでいる。しかし、結局、まずは自分のことを考える罪人であることを理解していない。その結果、他者に与える人間は、余剰を持っている人間になってしまう。余剰を持っているから、良い人間になれるということになる。果たして、それが良い人間なのだろうか。イエスの当時の義人も同じ考え方に従って善行を積んでいたのだ。

良い人間は、余剰がある人間であるということであれば、貧しい人間は良い人間、つまり義人にはなり得ない。義人になることができるのは、余剰を持っている金持ちである。しかし、それが本当に義人なのだろうかという疑問も誰もが持っていたのだ。それゆえに、マタイによる福音書1916節以下で、金持ちの青年がイエスに問うたのだ。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすれば良いのでしょうか。」と。それに対して、イエスは「掟を守れ」と勧めている。そして、青年はどの掟かと尋ね、イエスは十戒を語る。その中に「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉も語られているが、青年は「皆守ってきた」と答える。それでもなお、他に何かすべきなのではないのかと言うのである。「隣人を自分のように愛する」ということを、金持ちの青年は余剰から簡単に行ってきたのだ。余剰があるのだから、施しができたからである。彼に対して、イエスは言う。「すべてを売り払え」と。そんなことはできないと金持ちの青年は立ち去るのである。弟子たちの考え方は、これと同じことである。自分たちには、五つのパンと二匹の魚しかない。余剰はないのだから、与えられないというわけである。これに対して、イエスは言う。「あなたがたは持ってきなさい、わたしに、ここに、それらを」と。そうして、イエスの許に持ってこられた五つのパンと二匹の魚を、イエスは感謝して、裂いて、弟子たちに「与える」。そこから、すべてが始まった。イエスが与え、弟子たちが与えるという贈与の連鎖が。持っているものではなく、持っていないということに至ったとき、与えることが増加していくのである、神によって。

弟子たちは、自分たちが持っているものにこだわっていた。持っているものが自分たちの余剰ではなく、自分たちだけのものでしかないということにこだわっていた。それゆえに、群衆が自分にパンを買うことへ解放しましょうという言明となって現れるのである。ところが、イエスは「わたしに、ここに、持ってきなさい。」と言うのだ。それは、イエスの許に持っていけば増えるということではない。イエスの許に持っていくことで、弟子たちが持っているものは失われるのである。失われたものが、イエスの感謝と引き裂きによって、与えることへと増加していくのだ。

イエスも弟子たちから与えられ、自分のものとするのではない。弟子たちから与えられたものを、神から与えられたものとして引き裂く。引き裂かれた贈与が、弟子たちの与えることを生み出す。生み出された与えることが、連鎖していく。こうして、贈与が満たされていく、五千人に。使徒言行録2035節で使徒パウロが語っているように、「受けるよりは与える方が幸いである」とのイエスの言葉は真実なのである。この五千人の給食において、イエスが行われたのは「与える幸い」である。贈与の満たしである。贈与は、贈与を満たして、すべてを満たす。これが、今日イエスが行われたことである。これは余剰から与えるという自然的人間の思考を批判し、覆すイエスの奇跡なのである。

余剰がある人が与えれば良いではないかと考える貧しい人間は、余剰を持っているのは金持ちであるという所有の論理に陥っている。余剰であろうと、欠乏であろうと、すべての人間が神の養いのうちに置かれているのだという信仰はそこにはないのだ。我々人間は、どうしても自分が持っているものから考える。自分の所有をまず考える。自己固有化して、やっと人を助けることができると考える。所有、固有化ができる人間になってこそ、他者を助けることができると考える。それが所有の論理、自己固有化の論理である。金持ちしか人を助けることができないという論理である。果たしてそうなのかとイエスは今日我々に問うている。弟子たちに問うている。群衆に問うている。この問いの前で、イエスは奇跡を行うのである。余剰のない人間同士が、与えることによって満たされるという出来事を起こすのである。これはまさに奇跡である。人間的レベルでは考えられない奇跡である。神的出来事である。神が主体である出来事である。神は常に贈与の生を生きておられるからである。

神は、最初から贈与を生きておられる。この世界を創造されたときも、神はこの世界に命を与えた。神に余剰があったからではない。ただ、神はこの世界に命を与えたのだ。「光あれ」と光が生きることを与えたのだ。神は光のうちに自らを与えた。自らの意志を与えた。自分自身を与えた。光は光として、光を世界に与え、神の意志に従って光っているのだ。我々人間も同じように、神の似姿として造られた。神があることを望み、我々は命の息を吹き込まれ、生きる者となった。我々が神に似ているということは、与える存在として似ているということである。与えることにおいて生きることが神の似姿としての人間の生なのである。そうであれば、今日イエスは、与える存在としての人間を回復させようと、与えることを始められたのだ。贈与の満たしを始められたのだ。

贈与の満たしこそ、十字架である。十字架は、与えるだけの生を生きている。自分に余剰がある生を生きてはいない。余剰なく、限界ぎりぎりにおいて、十字架は立っているのだ。十字架の上で、イエスは地上の生の限界を生きている。そして、すべてを与えている。贈与が十字架の意味である。受けるより与える方が幸いである生を、イエスは十字架の上で生きておられる。我々もこの生を生きることができる、我々もイエスの贈与に満たされているのだから。満たされた贈与を満たしていくことができるのだ。あなたのうちに形作られるキリストに生きていただこう。贈与の満たしを生きていただこう、わたしのうちで、連鎖する贈与の満たしを。

祈ります。