2014年8月31日 末竹十大牧師
「把持」
マタイによる福音書14章22節〜33節
「しかし、すぐに、イエスは手を伸ばして、彼を把持した。」と記された後、「そして、彼は彼に言う。少ない信仰の者よ。何へと疑ったのか。」とイエスは言う。イエスは、彼ペトロを把持した。しっかりと握った。それは、このときだけなのか。いや、イエスはずっとペトロを、そして他の弟子たちを把持していたのだ。山で祈っているときも、彼らをしっかりと掴んでいた。彼らが、逆風に漕ぎ悩んでいたときも、イエスは彼らを把持していた。イエスは、弟子たちを愛していた。弟子たちが、逆風に遭うときも、イエスは彼らを愛していた。彼らが五千人にパンと魚を与えたときも、彼らを愛していた。彼らに与えたからである。イエスは、常に弟子たちを掴んでいた。しかし、弟子たちはそれが分からなかった。
掴んでいるイエスは分かっている、弟子たちが不安であることも、弟子たちが死にそうになっていると思っていることも。だからこそ、イエスは夜明け前に、海の上を歩いて、わざわざ弟子たちのところへと来たのだ。弟子たちとイエスとはしっかりと繋がれていた。それゆえに、海の上を歩くのだ。弟子たちを愛するがゆえに、イエスは海の上を歩くのだ。海の上を歩いてまでも、弟子たちのところへと来たのだ。そこまでして、弟子たちをしっかりと掴んでいるイエスがおられる。このお方がおられるからこそ、風は静まる。このお方がおられるからこそ、ペトロは助けられる。このお方がおられるからこそ、舟は向こう岸に着く。このお方が彼らをしっかりと掴んでいることによって、すべての困難は越えられるのだ。イエスの把持によってこそ、我々は困難を越えて行くことができるのだ。イエスの把持はそれほどに強く、すべてを制御し給う。すべてを支配し給う。
「勇気を出せ。わたしはある。恐れるな。」とイエスは言う。「わたしである」と新共同訳は訳しているが、ギリシア語ではエゴー・エイミである。「わたしはある」とも訳せる。出エジプト記3章14節において、ヤーウェがモーセに語った言葉「わたしはある」と同じである。ギリシア語旧約聖書ではエゴー・エイミと訳されている。ヘブライ語ではイェフイェーである。ヤーウェの語源であると言われるハーヤーという言葉の三人称単数現在である。イエスはここでイェフイェーと言ったのだ。つまり、ヤーウェの存在形式である「わたしはある」と同じ言葉を語ったのだ。ということは、イエスはヤーウェのように「わたしはある」存在であると語ったのだ。それゆえに、弟子たちに「勇気を出せ」と言い、「恐れるな」と言ったのだ。その理由は「わたしはある」からだと。
「わたしはある」と語ったイエスが彼らを把持していることによって、弟子たちは「わたしはある」お方の手によって掴まれている。それゆえに、「勇気を出せ」とイエスは言い、「恐れるな」と言うのである。何故なら、「わたしはある」からだと。イエスが「ある」ことによって、弟子たちは「ある」のだとイエスは語っているのである。弟子たちはイエスにしっかりと掴まれているがゆえに「ある」のだ。如何なるときも、如何なるところでも、「わたしはある」のだから、何も恐れる必要は無い。勇気を出せ。イエスは弟子たちにそう語られた。
弟子たちは、イエスに把持されていたことを理解していなかった。それゆえに、恐れた。それゆえに、少ない信仰であった。十分にイエスから、信仰を受け取っていなかった。把持するイエスの手をしっかりと掴むことによって、イエスの信仰が我々のうちに溢れてくるのだ。
ペトロは、風を見て恐れた。それはイエスが掴んでいることを忘れたからである。それゆえに、イエスはしっかりとペトロを掴んだのだ。疑うということは、イエスが掴んでくださっていることを疑うことである。そのとき、我々は恐れる。たった一人だと恐れる。しかし、イエスはわたしを把持してくださっている。わたしが忘れているだけ。わたしが感じていないだけ。わたしが他を見ているだけ。イエスはしっかりとペトロを見ておられた。それゆえに、「すぐに、ペトロを把持した」と語られているのだ。ペトロが風を見ているときも、イエスはペトロを見ておられた。イエスはペトロを掴んでおられた。イエスはペトロを愛しておられた。ペトロの不信に、すぐ対応できるのは、イエスが変わらずに把持しておられたからである。
我々人間は、すぐに他のことに目が移ってしまう。わたしを愛してくださっているお方がおられるのに、他のものに目が移ってしまう。好奇心に駆られ、新奇なものに誘われてしまう。それらに溺れ、自分を失ってしまうのだ。しかし、我々を把持しておられるお方は、そのような我々をいつも見ておられる。そして、我々の叫びにすぐに応えてくださる。それがイエスである。それが神である。それが「わたしはある」お方である。
「わたしはある」というお方は、我々が存在する限りおられるのではない。そのお方を我々が見ているときだけおられるのではない。我々がそのお方を仰いでいなくとも、おられる。我々が人間しか見ていないときも、おられる。我々がこの世の出来事に翻弄されているときにも、おられる。我々が陰府に身を横たえようともおられる。そのお方が存在する限り、我々は存在するのだ。「わたしはある」とはそのようなお方の存在形式である。そのお方のうちにいなければ、我々は存在しない。そのお方がいなくなれば、我々は存在しない。そのお方がおられるからこそ、我々は生きている。死んでも、生きる、そのお方のうちに。それゆえに、イエスは十字架の上でも「わたしはある」お方として存在したのだ。死んでも「わたしはある」お方であったのだ。
我々の存在は、「わたしはある」というお方のうちに常に把持されている。わたしが生まれたことにおいて、わたしは生みだしてくださったお方に把持されている。わたしが生きていることにおいてわたしは把持されている。わたしが苦難の中にあっても把持されている。わたしが順風の時も、逆風の時も、わたしは把持されている。そして、そのお方の言葉によって、わたしは海の上も歩くことができる。そのお方に把持されているのだから。不安定な海の上にもそのおかたは「ある」のだから。そのお方に繋がれているのだから。
それゆえに、我々は恐れてはならない。勇気を出して、歩み出すのだ。如何なることがあろうとも、イエスがおられる。如何なることもイエスが経験した。如何なることもイエスは乗り越えられた。どれだけ引き離されたと思っても、イエスには常に把持されている。それが我々の信仰である。イエスがわたしを把持し、わたしがイエスを把持することによって、我々はイエスからの信仰を十分に受け取る。そして、神に信頼し、イエスの愛を受け取り、勇気を持って歩み出すのだ。
「わたしはある」というお方は失われない。いや、この世は「わたしはある」お方のうちに存在するのだ。わたしも、あなたも、あの人も、この世界のすべてのものが「わたしはある」お方のうちに存在する。そのお方が、すべてを把持しておられるからである。この把持を受け取ることが、我々に与えられた信仰の働きである。イエスの十字架は、この世を把持している。この世のすべての罪も含めて把持している。疑いも含めて把持している。不安も恐れも、十字架のイエスに把持されている。この信仰を新たにするために、今日イエスはご自身の体と血を我々にくださる。あなたのうちに、イエスご自身が生きてくださるために、与えられる体と血。感謝して受け、イエスに従って行こう。イエスを信頼して、歩みだそう。我々は、神の民。イエスの群れ。キリストの体なのだから。
今日も、共に聖餐に与り、一つの体を受け、一つの体とされ、一つの信仰のうちに生きていこう。あなたがたを把持するお方のうちに。
祈ります。
|