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2014年9月7日 末竹十大牧師


「受け取る憐れみ」

マタイによる福音書15章21節〜28節

 

「わたしを憐れんでください、主よ、ダビデの子よ。」と女は叫ぶ。「しかし、彼は彼女にロゴスを答えなかった。」とマタイは報告する。彼の弟子たちは御許に来て、イエスに願って言う。「彼女を解放してください。彼女は叫んでいるから、わたしたちの後ろで。」と。弟子たちは、女を解放するように願い出た。しかし、イエスはそれには直接答えない。そして、言う。「わたしは遣わされなかった、イスラエルの家の失われた羊たちへ以外は。」と。女は「わたしを助けてください」と言う。イエスは、冷たく女をあしらうように振る舞っている。この冷たさはいったい何なのか。イエスは、女を見ようともしないではないか。イスラエルの家以外には遣わされていないと言って、女の「憐れんでください」との言葉を拒否している。これはどうしたことだろうか。弟子たちも不思議に思ったことであろう。

しかし、イエスが言及した「イスラエルの家」の次なる表象が女のイメージを喚起した。「子どもたちのパンを取って、小犬に投げることは良くない。」とイエスは言ったのだ。子どもたちはイスラエルの家の子どもたちだと女はイメージした。そして、その中には小犬も含まれていると。「犬」は異邦人の蔑称であった。「豚」同様に汚れた動物であった。イエスもマタイ76節でおっしゃっている。「聖なるものを犬に与えるな。真珠をあなたがたの豚たちの前に投げるな。」と。犬は受け取らないのだと。そのような犬に、子どもたちの食卓のパンを取って、投げることは良くないのだとイエスが言ったことで、女は自分を犬だと言うイエスを知った。しかし、犬が汚れているとしても、床に落ちて汚れたパンの欠片は犬が食べるだろうとのイメージが起こされたのだ。

女は、イエスの与えたイメージから、自らの位置づけが見え、その犬が主人のパンの欠片から食べるイメージが起こされた。こうして、女はイエスに答えるのだ。「然り、主よ。そして、何故なら小犬たちは食べます、彼の主人の食卓から落ちた欠片から。」と。こうして、女は主の憐れみを受け取ったのである。主が与えたイメージを憐れみとして受け取ったのである。こうして、女は主体的に受け取った、主の憐れみを。これが女に与えられた信仰の働きである。

信仰は与えられるものである。信仰と共にすべてが与えられる。与えられるものを素直に受け取る者が信仰者である。信仰者は、信仰を与えられて信仰者として生きる。それゆえに、その人の信仰は与えられるものであり、受け取る者にされていることである。自分で受け取るのではなく、受け取る者にされて受け取る信仰なのである。従って、信仰が先か、受け取るのが先かという議論は虚しいのである。信仰を受け取る者は、信仰によって受け取る者にされているのであり、受け取る者にされている時点で信仰を受け取っている。受け取っている信仰によって受け取らされている。従って、信仰による受け取りはあくまで神の領域である。聖なる領域である。

受け取った信仰が働いて、信仰を受け取る。そして、すべてを受け取る。信仰に入れられた者は、すべてにおいてすべてを受け取る者とされている。従って、女もイエスのイメージを受け取ったとき、信仰を与えられて、受け取る者とされたのである。イエスの言を聞いたとき、女は信仰に入れられていたのだ。そして、イスラエルの家に入れられていたのだ、小犬として。

イエスが冷たくも、犬としてあしらったとき、イエスは女が主体的に信仰を受け取るように導かれたのだ。何もない存在として生きるように促されたのだ。犬として生きることを促されたのだ。汚れた存在であることを生きるようにと招かれたのだ。汚れた存在も家の中に入れておられたのだ。女が「然り、主よ」と言ったとき、彼女は信仰によって、自らを受け入れた。信仰によって、自らを犬とした。信仰によって、自らが受け取る存在として生きた。食卓から与えられる存在として、女は自らを認めたのだ。それゆえに、女は自らを神の家に住む者として生きたのだ。

女は、イメージによって、すべてを了解した。神の家という世界を了解した。神の家に生かされていることを了解した。そして、すべてが備えられていることを受け取った。憐れみはすでにあった。憐れみはイエスの冷たさの中にあった。イエスの拒否の中にあった。それは受け取る者にしか与えられないのだ。受け取る者こそ、憐れみを受ける者である。女は神の民の世界と異邦人の世界に二分していたであろう。「わたしを憐れんでください」との女の叫びは、神の民の世界の外で叫ばれたのだ。自らは異邦人であり、イエスが異邦の世界に来たと思った。異邦人である自分のそばに幸い来たのだから、「憐れんでください」と叫んだ、異邦の世界の中で。

ところが、イエスの拒否の言によって、女は世界が神の民の世界であるというイメージを受け取ったのだ。イエスの言が女に信仰を与えた。そして、受け取る者とした。ここにおいて、女は自らを家の外に置く必要がないことを知ったのだ。今まで、異邦の世界に生きていた女が、神の民の家に住む犬というイメージを与えられた。家の中に住むことが許されていると受け取った、信仰において。これによって、女にはすべてが与えられている。神の民の家の中に生かされているのだから、神の民に与えられるパンも与えられている。たとえ欠片であろうとも、パンはパンである。パンは大きくとも、小さくとも、同じパンという生地を持っている。欠片であろうともパンそのものを受け取るのだ。一個のパンでなくとも、パンそのものの要素はすべて詰まっている。欠片もパンとしては完全にパンである。欠片においても、全体を受けるのである。欠片であろうとパンを受ける犬は、パンに養われ、パンが犬のうちでパンとしての働きをするのだ。

神が与える信仰は完全である。欠片でも完全である。受け取ることにおいては、完全に受け取る。神が与える信仰とはそのように完全なるものである。それゆえに、犬であろうとも神の民の家に生きることができるのである。ここにこそ、女に与えられた信仰の秘儀がある。我々が自分の信仰の強さや大きさを考えるとき、信じること少ない自分を考えている。ときに信じ、ときに疑う自分を考えている。そのような信仰は信仰ではない。信仰は欠片であろうと完全なのだから、疑うなどということはないのだ。ときに信じるということでもないのだ。神が信仰を与え給うときには、わたしは完全に信じているのだ。神の信仰が完全であるからである。

そのような信仰のうちにあるならば、我々はいつでも憐れみを受け取ることができる。如何に冷たく思える神の言であろうとも、憐れみを受け取ることができる。厳しいみことばであろうとも、憐れみを受け取ることができる。苦難の中にあろうとも、憐れみを受け取ることができる。悲しみの中にあろうとも、憐れみを受け取ることができる。あなたが信仰のうちに生きているならば。信仰のうちに生きているならば、その人の世界は神の世界である。それゆえに、娘は癒されていたのだ。彼女が生きる世界が神の憐れみの世界なのだから。彼女が受け取った憐れみの中に、娘も生きているのだから。

今日、イエスは我々に与え給う、憐れみを。欠片であろうとも完全である憐れみを。ご自身の体と血において、完全に与え給う。我々は、完全なる救いを今日も受け取るのだ。主の憐れみを受け取るのだ。信仰において受け取るのだ。信仰において受け取る憐れみによって、我々は主のものとして生きるようにされる。神の世界を生きるようにされる。神の民の家に生きる者とされる。

あなた自身が自分をどこに見出すかが問題なのだ。あなた自身が自分をどのような世界に見出すかが問題なのだ。あなた自身が自分を誰のものとして生きるかが問題なのだ。あなたは完全なる神の民の家に入れられて、その家のすべての祝福に与る存在なのだ。イエスご自身が与え給う憐れみによって、すべてを信じ、すべてを忍び、すべてに耐えて生きていこう。イエスの十字架に現れている神の憐れみを受け取る者として。

祈ります。