日本福音ルーテル教会 希望教会 証する信徒・教会になろう















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2014年9月14日 末竹十大牧師

「教会を建てる者」

マタイによる福音書16章13節〜20節

 

「しかし、答えて、イエスは彼に言った。あなたは祝福されている者。シモン・バルヨナ。何故なら、肉と血はあなたに啓示しないから、むしろ天におけるわたしの父が。」とイエスは、ペトロに言う。啓示するのは、天の父であり、肉と血は啓示しないと言う。肉と血は、人間である。人間的な思いが、人間的な価値が、人間的な力が、あなたに啓示するなどということはないのだとペトロに言うのだ。さまざまな人々の意見を聞いているペトロが、「あなたがキリスト、生ける神の子である。」と答えたことに対して、イエスが言うのだ。「あなたがキリストである」と答えるのは、天におけるわたしの父の啓示によらなければ起こり得ないとイエスは言うのだ。この啓示はイエスの問いに始まっている。イエスの言が啓示を引き出した。「人間たちは、人の子を誰と言っているか」と。あえて「人間たちは」と言ったのだ。さまざまな意見を「人間たちの意見」であると規定したあと、「あなたがたは、わたしを誰と言うのか」と問うたのだ。

啓示は、覆われているものが被いを取り除かれて明らかに見えるようになることである。覆われていたものを覆っていたのは、我々の罪である。この罪を突き破って、被いを取り除き、見えるようにするのは天の父であるとイエスは言う。どうしてなのか。

罪は、人間的なものである。神に創造された当初の人間は罪を負っていなかった。アダムとエヴァが善悪の知識の木から取って食べたがゆえに、人間は罪に陥ってしまった。神が造られたものを善悪に判別するようになってしまった。神が似姿として造った自らも善悪に判別するようになってしまった。判別する罪は人間的なものである。

誰かの行いを、人間的に判別して、悪だと言う場合、判別する人間の判断が入り込んでいる。それゆえに、人を傷つけることも起こるのである。躓かせることも起こるのである。悪だと判断する前に、自らの罪を見つめなければならない。悪は、判別することにあるのだから。それゆえに、いろいろな人間の判別、判断を見聞きしたペトロが、そのような意見に左右されることなく、イエスのことを「あなたがキリスト、神の子である」と答えるのは、人間的判断に左右されていないということである。しかも、この告白は人間的には認識不能な「神の息子」を告白しており、人間的に救われたいとの願いからではなく「救い主、キリスト」を告白しているのである。つまり、ペトロには目的性がないのだ。目的性がないということは、何かを得るために、あるいは救われるために告白しているわけではないということである。ただ、啓示されたように告白しているだけである。それこそが、信仰告白なのである。

本来的には、救われた者が告白するのが信仰告白であると考えられている。しかし、ペトロは救われているわけではない。むしろ、これから罪を犯す。イエスを否認する。それにも関わらず、ペトロは告白するのである。ということは、このペトロの告白は彼の経験としての信仰告白ではない。彼が救い主に出会ったという告白でもない。ただ、啓示によって告白するようにされているだけである。これこそが真実に告白なのである。それゆえに、イエスはシモンをペトロ「石」と呼ぶ。それは、ペトロが岩なのではなく、あなたは石ころだとの言である。この石ころが集合し、大きくなった大岩盤がペトラ「岩」である。いや、大岩盤の構成物が石ころ、ペトロである。大岩盤がペトラであり、ペトロは石ころである。この石ころは、大岩盤である神からの啓示を受けて、告白する石ころなのである。それがペトロである。「あなたはペトロ」というイエスの言は、ペトロが岩なのではなく、岩の力を表す存在としての呼称である。その岩はイエスの天の父である。このお方が、ペトロに啓示したがゆえに、ペトロはこの告白をなし得たのである。

ということは、我々の信仰告白は、救いの経験がなくとも行えることになる。信仰告白は、神がなさせる啓示の業なのである。信仰は神が与えるものだ、ということと同じである。神が信仰を与え、啓示し、告白させるのである。これが今日、ペトロに起こった出来事である。イエスは、このペトロに起こった出来事を見て、彼に言う。「あなたはペトロ」と。あなたは石ころであると。大岩盤の構成物であると。そして、「この大岩盤の上に」、イエスは「わたしの教会を建てる」と言うのだ。「この大岩盤のうえに、わたしは建てる、わたしのエクレーシアを」とイエスは言うのだ。ということは、ペトロの信仰告白が石ころであれば、エクレーシアである教会はペトロの集合である「この大岩盤の上に」建てられる。この大岩盤なのだから、エクレーシアはひとつひとつの告白する石ころの集合である。神が呼び出した石ころの集合がエクレーシア、教会なのである。

この教会は、神の啓示を受けた石ころによって構成されている。この構成を綜合して、建築するのはわたしであるとイエスは言うのだ。エクレーシアである教会を建てるのはイエスなのだ。このお方が建てるのであれば、我々キリスト者は石ころであり、キリストが建て給う出来事によって、呼び出され、集められ、教会というキリストの体へと建て上げられるのである。そうであれば、そこには人間的な判断は入り込まない。人間的な善悪は入り込まない。ただ、イエスが集め、イエスが建てる出来事だけが生起するのが、教会、エクレーシアなのである。

ところが、我々の教会は人間的である。人間的な判断が生じ、諍いが生じ、傷つけ合うことが生じる。これはイエスが建てる教会ではない。我々人間が、このような教会にしたいという思いは、結局人間的なものなのだ。「仲良くすれば教会になる」というのも人間の思いである。我々が夢を描く教会像は人それぞれである。対立するものである。誰も綜合できない。こうでなければならないと主張し合う。自分の思い描く教会像を実現してもキリストの教会にはならないのだ。その人の教会になるだけである。それはエクレーシアとは言わないのだ。

では、良く話し合えば、キリストの教会になるのだろうか。そうではない。良く話し合うのは人間である。人間的に話し合ったところで、人間的な多数決の判断が生じるだけである。そして、大多数が賛同するが、少数の人が排除される教会ができる。こうして、教会は人間の教会となる。人間がいくら話し合っても、人間を越えることはできない。みことばに聴く一人ひとりがいなければ、神の啓示は生じないのだ。神の啓示が生じた石ころであるわたしとあなたが神によって綜合されることを受け入れてこそ、神の教会となるのである。何故なら、イエスが言うからである。「わたしが建てる、わたしの教会を、この大岩盤の上に」と。

あなたは石ころである。大岩盤ではない。石ころであることを受け入れ、生きる者こそ、啓示を受けている者である。石ころであることを生きているならば、あなたは人を判断することはないであろう。ただ、自らの小ささを受け入れ、神が置かれたように生きるであろう。誰も傷つけることはない。他者を責め苛むような働きはサタンの働きである。このような働きに流されないためには、みことばに聴くわたしでなければならない。大岩盤に従うわたしでなければならない。教会は、キリストが建てるのだから。

我々が、常にみことばに聞き従うならば、啓示を受け取り、判断しないで、神に従う生き方が可能となるのである。これこそが、教会を建てるイエスの力に従うことである。多くの思惑が働くのが、人間的判断である。そのような者が、力を得るならば、地上でつなぎ、解く力を自分のために用いてしまうであろう。そのとき、教会は悪魔の教会となってしまう。天上とは逆のことをしてしまうのだ。

互いに受け入れ、感謝し、啓示されたことに従うことが肝要である。あなたは石ころなのだ。大岩盤ではないのだ。ただ、神が集めるという出来事自体が大岩盤である。人間的な判断に陥ることなく、神の意志に従う心で、イエスに建てていただこう、神の教会を。神の啓示に従う教会を。誰も排除されない教会を。誰にも押しつけられない教会を。誰もが石ころである教会を。

祈ります。