2014年9月28日 末竹十大牧師
「聞き流す罪」
マタイによる福音書18章15節〜20節
「彼が聞き流すなら」と言われている。「聞き入れない」と新共同訳では訳されているが、「聞き入れる」の否定形ではなく、「聞き流す」であり、否定辞はついていない。否定文ではなく、肯定文である。しかし、内容は否定的行為を表している。
「聞き流す」パラクーオーというギリシア語は、パラ「傍らに」とアクーオー「聞く」という言葉からできている。傍らで聞いているのだから、他人事として聞いているのである。「聞き入れない」という場合は、聞いて判断して、受け入れないことになるが、「聞き流す」場合は、聞こえてくる言葉を受け流すのである。自分の傍らを通り過ぎさせるのだ。「聞き流す」ということは、自分の問題として真正面から受け取らないことなのである。他人事として見ている場合、我々は評価する。「あの人は成功した」、「この人は失敗した」と評価する。その場合、評価する人間は、傍らにいるだけであり、当事者として関わっているわけではない。「聞き流す」ということは、そのように聞くことであり、聞いてはいないということである。だからこそ、まずは二人だけで忠告することが勧められるが、結局教会全体の問題となったとしても、「聞き流す」のだと言われているのだ。最初に聞き流した者は、最後まで自分の問題とすることはないのだ。最終的に、「異邦人」、または「徴税人」と同じように生きていることになると言う。これは「異邦人」が積極的にユダヤ人を拒否することを意味している。「徴税人」が積極的に自分から異邦人の側についていることを意味しているのだ。ユダヤ人であるにも関わらず、客観的存在として生きていること、他人事として生きている存在であると考えるようにと、イエスは勧めるのである。
自分のこどものことであれば、「成功した」とか「失敗した」とか他人事の評価はしないであろう。むしろ、「頑張ったね」「惜しかったね」と言うのである。それなのに、「あの子は失敗した」、「この子は成功した」と評価する場合は、他人の子のことである。それが「聞き流す」ことである。もし、自分の子であれば、神に祈るであろう。「神さま、どうかあの子の上に、良き力を与えてください」と。
それゆえに、イエスは最後に祈りについて語っているのである。異邦人として、徴税人として、積極的に神から離れてしまう存在のために祈ること。これが教会である。その中に、わたしも共にいるのだと、イエスは言うのだ。その人の問題は、わたしの問題だと祈る存在において、イエスの心が生きているからである。
イエスの十字架は、他人事の出来事ではない。他人事の出来事として、イエスの十字架を見る者は救われていない。自分の罪があの十字架の上に磔になっていると認める者は、イエスの十字架は自分の問題なのである。そして、イエスは十字架に架けられることを通して、一人ひとりの人間を自分の問題として引き受けておられるのである。それゆえに、祈る者は、自分の問題として祈るのであり、イエスがそのうちに生きている存在なのである。
教会は祈る存在である。神から離れてしまう存在が救われるようにと祈る存在である。他者のために祈ることにおいてこそ、教会が教会である現実が現れる。イエスの心が現れる。教会が他者を客観的に見ているということはあり得ないのだ。もし、教会が他者を客観的に見ているならば、それはキリストの教会ではない。ただの仲間である。仲良しグループを作って、そこに入れない存在をその人の問題としてしまうのである。そして、自分たちは何も変わらず、仲間になるなら入れてやろうという立場を崩さないのだ。これは教会ではない。
他者の罪の問題も、自分の問題であるがゆえに、その人のために祈る。自分の問題として祈る。祈る存在が、神によって変えられていく。こうして、使徒パウロが言う如く、教会は日々新しくなっていく内なる人となっていくのである。日々新しくなって行く内なる人はキリストである。キリストご自身が、我々のうちで日々新しく生きてくださるのだ。これが教会であり、キリストの体なのだ。
このような教会の祈りにおいて、「天上のこと」と「地上のこと」が一致する。神の意志に従って、天と地が一つになる。「縛ること」、「解くこと」がどちらも神の意志に従って起こる。「縛る」とは、罪に定めることであり、「解く」とは罪を赦すことである。従って、罪に定められた存在が罪赦される存在と認められることが教会の業である。教会の祈りにおいて、この世のすべての人間が罪を認め、罪を赦されるところへと生きることになるのだ。
これは人間が罪に定め、人間が罪を赦すことではない。我々は、神の言において人に罪を認めさせる業を行う。神の言において人に罪の赦しを得させる業を行う。神の言が行うのであり、人間が他者を罪に定めるのではない。教会の言とは、神の言である。この言を「聞き流す」ならば、その人は自分のこととして神の言を聞いていない。神の言を自分に当てはめるのではなく他者に適用する。そして、他者を糾弾し、失敗だと批判し、罪に定める。罪人を作り出して、自分は義人だと思い込む。こうして、「聞き流す」罪が、我々をサタンに支配された義人の集団にしてしまうのである。
このような集団にならないために、今日イエスは弟子たちに言う。「もし、あなたがたのうちの二人が共に声を調和させるなら、地の上で、彼らが願い求めるすべての事柄について。それらは生じる、彼らに、天におけるわたしの父の傍らで。」と。「共に声を調和させる」という言葉は、交響曲シンフォニーの語源であるスュンフォネオーという言葉である。声が解け合うように調和させることが原意である。そのためには、心も体も形も調和することが必要である。願い求めることについて、そのように調和するならば、天におけるイエスの父の傍らで、願い求めたことが生じるであろうと、イエスは言うのだ。つまり、神が調和を求め、調和する声に耳を傾けるのだということである。これが祈りである。そのとき、イエスは、我々の間に生きている、調和させる力として。一致する力として。求める心を同じように与えるお方として。
イエスが祈りを与え、神が祈りを実現する。我々人間が実現するのではない。我々人間がなすべきは、心を合わせて、声を調和させて、祈ることである、イエスの心に合わせて。
教会は、イエスの名のうちへと集まっている。そのあつまりの中に、イエスが生きている。神によって集められる出来事の中に、イエスが生きている。我々は、週毎に、イエスの名のうちへと集まる。そう宣言して、礼拝を始めるのだ。イエスの名のうちへと集まる出来事。これが教会なのである。イエスの名のうちに、互いを認め合うことが教会である。イエスの名のうちへ、互いを受け入れることが教会である。イエスの名のうちへ、互いを赦し合うことが教会である。互いに罪に定め合うのではない。罪を赦し合うのだ。イエスの名が、罪の赦しを宣言しているのだから。礼拝の初めにおいて、罪の赦しが宣言されているのだから。罪赦された存在として、互いを認め、互いを受け入れ、互いを赦すこと。ここにおいてこそ、我々はイエスの名へと集められている存在として生きるのである。
我々の教会は、未だキリストの体とはなっていない。罪人の集団である。批判し合う集団である。仲良しグループが教会だと勘違いしている集団である。他者のために祈るよりも、自分のために祈る集団である。他者よりも自分が大事な集団である。我々がキリストの体となるには、多くの苦難を自分のこととして担い合うことが必要なのだ。他者の罪を、自らの罪として担うことが必要なのだ。他人事ではなく、自分の問題として、共にキリストの体を求めて行くことが重要なのだ。そのために、神は我々を「イエスの名へと」集め給うのだから。
祈ります。
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